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朝もやを切り払う

榊原文翠(さかきばら ぶんすい)の長刀鉾の画賛です。

朝もやを

 きりはらひてや

    す丶むらむ

 長刀鉾の

   とく

     ゆする

        なり

榊原文翠は 享和3年 (803に) 江戸に幕臣榊原長基の子として生まれています。幼名は芳太郎、名は長敏、別号に佳友・鶴松翁・気揚山人などがあります、はじめ谷文晁の門に入り、のち大和絵を描きました。有職や歴史的人物画を能くし、京都にに住しました。明治42年(1909)86才で没しています。

朝もやのかかる中、その長刀がそのもやを切りって急いで先頭を進んでいきます。長刀鉾は「鬮(くじ)とらず」として、毎年、祇園祭の山鉾巡行の先頭をいきます。現在、稚児が乗る唯一の鉾です。長刀鉾の名の由来は、鉾の頂には三条小鍛冶宗近(さんじょこかじむねちか)作の大長刀疫病邪悪を払うがつけられています。宗近は一条天皇永延 (987~989) ころの刀工で、三条一派の祖。左大臣頼長の佩刀小狐丸鍛造に冠する謡曲「小鍛冶」などが有名です。この長刀は,三条小鍛冶宗近が娘の病気の回復を祈願して八坂神社へ奉納したもので,その後,鎌倉時代にある武人に愛用され,不思議が連発したため返納されました。大永2年(1522年)に疫病が流行ったとき,神託により長刀鉾町でこれを飾ったところ疫病は治まったとの伝承があります。

疫病の流行により朝廷は貞観5年(863)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行いました。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念しました。貞観11年(869)、全国の国の数を表す66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を造り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるといいわれています。この祭が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ・マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したことです。その原因が、長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らにの卜占があったことによります。そして1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになり、室町時代は下京の町衆が町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになりました。

応仁の乱での30年の中断や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、1000年の歴史ある祭で、7月いっぱい神事が行われ京の夏の風物詩でです。

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