チャの木はツバキ科ツバキ属の常緑樹です。学名はカメリアシネシンス( Camellia sinensis)。原産地はインド・ベトナム・中国西南部とされていますが詳細は不明です。「シネシンス」はラテン語で中国産という意味です。なお、「カメリア」とはツバキの木を最初にヨーロッパにもたらしたイエズス会の宣教師、ゲオルグ・ジョセフ・カメルの名前にちなむそうです。
谷文晁画 茶の花図
中国の喫茶史
紀元前59年に(前漢)王褒の記した主人と下僕との間に交わされた契約書『僮約(どうやく)』に茶のこと記され、これが文献に現れる最古のものです。当初はキク科の苦菜(にがな)を意味する「荼(ト)」という文字が当てられていました。中唐の頃になり「茶」という文字が生れました。陸羽(りくう)が著した当時の茶の知識を網羅した『茶経』には、「茶(ちゃ)」・「檟(か)」・「蔎(せつ)」・「茗(めい)」・「荈(せん)」の5種があげられています。
『茶経』 ウイキペディアより
「興於唐朝、盛在宋朝(唐代から普及しはじめ、宋代でさらに盛んになる)」という言葉があります。唐代は主に「団茶(餅茶)」という固形茶が用いられていました。団茶を表面が赤くなるまで火で炙り、薬研で粉末にして器に入れ、熱湯を注ぎ葱や生姜、蜜柑の皮をなどを入れて飲むという方法です。『茶経』にはこうしたものを入れて飲む茶はその真味がそこなわれるとして、少量の塩を加えると主張しています。なお、唐の建中3年(782)から茶税の徴収が始まったという記録が残されています。755年〜763年の「安史の乱」で空になった国庫を満たす為の措置で、10パーセントの茶税を茶商達にかけられました。その後、20パーセントまで上がったという記録もあります。このことは人が生きていくのに欠かすことのできない塩同様、喫茶が人々の間に普及していた証でもあります。
団茶 蕭翼賺蘭亭図 台北・故宮博物院
研・茶碾 『茶具図賛』より
五百羅漢図 大徳寺蔵
唐代は葉を砕くのに臼と杵で茶は薬研を使って挽いていたが、宋代では葉は擂鉢でおろし石臼が使用したのでより粒子が細かい粉末になった。茶抹に湯を直接注いで泡が出るように茶筅で力強く攪拌して宋代には「団茶」を茶臼で粉末にし、天目茶碗に茶を入れ、湯を直接注ぎ茶筅で攪拌して飲む「点茶」が主流になります。特に北苑近辺の建窯で焼かれた黒釉の天目茶碗がよいとされました。皇帝専用の茶園「北苑茶園」で高級な「龍鳳団茶」が作られました。なお、龍鳳団茶や蝋面茶が次々と現れ、形ばかり追求された時期もあり、綺麗だが味は劣るという批判もありました。また宋代には新茶の季節に必ず闘茶が行われ、「湯色」、「湯花」に関する勝負の記録が残されています。また、茶筅で泡を点てて、花や動物などの図案を作る遊びである「分茶」が流行しました。そして北宋最後の徽宗(きそう)は自ら『大観茶論』という茶書を残したほどの茶を好み、皇帝が茶に熱中すると、周りの人々もその影響を強く受けました。そして庶民の間にも広く喫茶が行われた時代でありました。
石臼 『茶具図賛』より
点茶 五百羅漢図 大徳寺蔵
茶筅 『茶具図賛』より
天目茶碗 『茶具図賛』より
天目台・杔 『茶具図賛』より
明代になり、太祖朱元璋(しゅげんしょう)は農民の朝廷への貢茶の負担をなくすためとして、洪武24年(1392)、団茶禁止令を出し、その後、中国では「散茶」中心になりました。しかし、その後も皇帝への貢茶は続けられた。なお、朱元璋が貧農の出身であったため、「龍鳳団茶」などの高級茶を飲み慣れずその嗜好に合わなかったことによるとの説もあります。このことにより・ 小茶壺(急須)を用いる喫茶として今日に至っています。
小茶壺(急須)
清代に入ってからの中国茶は、殆ど明代の喫茶をそのまま受け継ぎ、発展させたものです。この時代、貢茶の産地が更に広がり、皇帝が自ら貢茶を指名する記録も残っています。龍井(ろんじん)の18本の御茶は高宗乾隆帝が名付け、この時代の茶好きな皇帝として有名な乾隆皇帝も数々の茶に関する詩や逸話を残している。
茶馬交易
唐代には茶と馬を交換するための交易路「茶馬古道」ができます。古代、馬は国防力の基本で、戦争に勝つ為にいかにたくさんの名馬を確保できるかにかかっていました。秦の始皇帝の時から既に遊牧民の匈奴(きょうど)の侵略に悩まされていました。匈奴は優れた騎馬技術と武器により、秦、その後の漢も匈奴に対抗できる力を持たず、漢武帝の時代まで匈奴に対して献上品を送るなど低姿勢に徹していました。しかし武帝が帝位につくと、張騫(ちょうけん)を西域に派遣し、名馬の重要性を痛感し、また衛青(えいせい)と霍去病と(かっきょへい)いう二人の卓越した将軍によって、積極的に匈奴を討つ為に動き出しました。肉食中心の遊牧民は、長期に渡る肉類の摂取でビタミンCなどの欠乏を防ぐ為に茶が欠かせませんでした。野菜が食べれない分を茶で補っていたのです。供給側から見れば、茶は周辺の遊牧民を牽制する有効な手段であったのです。唐の粛宗(しゅくそう)の時から戦略物資である茶を厳重に管理し、北宋になると「辺茶(へんちゃ)」を専門的に管理する「茶司馬(ちゃしば)」が設けられました。「寧可三日無油塩、不願一日不喝茶」や「一日無茶則滞、三日無茶則病」という語からも分かるように、遊牧民にとっては茶がなくてはならない存在となっていたのです。
宋代も唐に倣い遊牧民との交易により軍馬を取得する方法が行われました。その規模は唐代に比べ大規模なものになりました。北宋では、現在の陝西・甘粛・寧夏・四川などの地に多くの買馬場が開かれ、これを管理する茶馬司が設置されました。宋代の茶と馬の交換率は、元豊年間には100斤の茶で馬一頭と交換されました。その後、馬は良馬と綱馬などの9等類に細かく分けられ、良い馬は茶250斤、一番下の馬は132斤となりました。宋は交換したた良馬は戦場へ、普通の馬は西南の少数民族へ分け、朝廷への忠誠と交換しました。
磚茶の運送
ロシア向けの磚茶
ヨーロッパとの交易
明代には永楽帝が宦官の鄭和(ていわ)を南海に派遣し、産品の交易を求めて大船団でインド洋、アフリカ東岸まで7回も遠征し、通商貿易の拡大に努力しました。16世紀になると大航海時代の幕開けで、ヨーロッパの探検家や宣教師が多くやってくるようになり、茶の情報がヨーロッパに多く伝えられました。
清代の咸豊3年(1853)に茶葉通関税が導入され、水路と陸路に設けた税関に国の規定した税金を払えば、茶商達は自由に茶の取引が出来るようにないました。これによって、長年、国によって統制されて来た茶の貿易と経営は、再び民間の手に委ねられるようになったのです。この茶葉通関税の導入と海外貿易の奨励により、伝統的な陸路に加え、水路を使った茶貿易が始まり、中国茶の輸出先はポルトガル、オランダ、イギリスなどの国でした。
17世紀にはオランダの東インド会社がジャワのバタビア、イギリスの東インド会社がボンベイに設置されて交易を行うようになりました。そして中国茶はオランダ人の手によりイギリスに売られました。このころヨーロッパでは、まず上流社会から中国茶(緑茶、のちに紅茶)を飲むようになり、18世紀には、イギリスを中心に喫茶が大流行した。イギリスは厦門に商務機構を設置し茶の取り扱いを開始します。すると貿易に熱心な福建を中心に様々な茶がヨーロッパに持ち込まれて紹介されました。このころイギリスの茶葉輸入は増大しました。松羅茶(しょうらちゃ)という緑茶がSINGLO(シンロ)として好まれ、やがて武夷山の発酵茶でBOHEA(ボヒー)が増大していきました。そしてイギリスではミルクを入れて飲むスタイルが普通であったため発酵茶の色調の濃いお茶が好まれるようになったようです。
南京条約以後は熱をかけることで、茶葉のなかの酸化酵素を殺し、変化が起きなくする「殺青(さっせい)」をせずに揉捻を行う紅茶が主流となり、インドでも紅茶を生産するようになっていきました。20世紀初頭には世界の茶葉生産は大多数が紅茶で、当初飲まれていた緑茶や半発酵茶は中国と日本を除くとごく限られた少数となりました。 乾隆帝(けんりゅうてい)は中国茶の取引の決済を銀としたため、イギリスから中国に大量の銀が流出しました。それに対しイギリスから清への輸出は、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものが中心で、大量に輸出できるようなものがありませんでした。そのことによりイギリスの大幅な輸入超過になりました。そこでイギリスは清へ輸出品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることにしました。イギリスが大量のアヘンを中国に持ち込むと、アヘン吸飲の風習は、上は高級官僚から下は一兵卒や全国民に至るまで社会の各層に拡がりました。その結果、アヘンの輸入量が飛躍的に増え、やがてその支払いには茶や絹製品の輸出だけでは追いつかない状況になり、大量の銀が中国からイギリスへ流失することになりました。アヘンの禁止令にもかかわらずアヘン中毒が増加し清朝を悩ますこととなっていったのです。
そこで道光帝(どうこうてい)は林則徐(りんそくじょ)を特命大臣である欽差大臣(きんさだいじん)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当らせました。これにより道光20年(1840)にアヘン戦争が勃発しました。結果、清がイギリスに屈して「南京条約」に調印して、香港割譲や五港開港を受け入れ半植民地化されていきました。その後、中国の茶業は目覚しく発展した。一方イギリスは中国以外での茶樹探索に乗り出し、イギリス人のブルース兄弟がアッサムで茶樹を発見してインドの茶産業も快進撃を続け、世界の茶市場は拡大を続けることになりました。
20世紀前半の戦乱によって中国の茶産業は崩壊し、さらに文化大革命でも影響を受けたため停滞を余儀なくされた。1972年の日中国交回復により、中国茶が輸入され、とりわけ烏龍茶がブームを巻き起こした。日本でのブームに引きつられて、福建省の茶産地の復興が起こり始め、やがて国内の経済発展と連動して勢いがついてきて今日に至っています。
かつての中国の茶摘み風景 家族総出による作業で、茶樹の高さは1メートル前後に刈り込まれている 『茶道体系』2 茶の文化史より
以下はかつての中国の製茶風景
紅茶を手で揉んでいるところ 『茶道体系』2 茶の文化史より
紅茶の乾燥 『茶道体系』2 茶の文化史より
緑茶の蒸釜 『茶道体系』2 茶の文化史より
緑茶の最初の乾燥と揉みひねり 『茶道体系』2 茶の文化史より
緑茶を袋に入れ地面に打ち付けているところ 『茶道体系』2 茶の文化史より
緑茶の等級付け 『茶道体系』2 茶の文化史より
足踏み扇風機によるふるい分け 『茶道体系』2 茶の文化史より
「チャ」と「テー」 「チャ」という語は広東語の茶の発音がルーツです。前出のように歴代の中国王朝は交易に茶を利用していました。茶馬交易では雲南省や四川省の茶が各地に運ばれ、広東から北京、朝鮮・モンゴル、西はチベット、中近東を経て一部東欧圏まで運ばれました。日本には遣唐使などの僧が茶を持ち帰り、仏教と共に伝来しています。茶は広東省だけでなく、国内各地の通商拠点からも伝播していると考えられています。
それに対し「ティー」は、閩南語(びんなんご)の「tê・テー」がルーツで、中国福建省の廈門(アモイ)の方言です。「tê」の読み方は、「茶」以前に使われていた「荼」(と)に由来すると言われています。福建省の廈門(あもい)はヨーロッパへの茶の輸出基地でした。オランダ東インド会社はヨーロッパの茶貿易を一手に担い、海路で持ち帰られた茶葉は、閩南語の「tê・テー」とともに近隣諸国に広まります。その後、オランダから茶を輸入していたイギリスも東インド会社を設立し自国で茶の輸入を行うようになります。当時、シノワズリー(中国趣味)が流行し、上流階級のは喫茶がステータスシンボルとなりました。
「tê・テー」の系統はイギリス、フランス、オランダなどヨーロッパ諸国、アメリカ、マレーシア、スリランカなど東南アジアなどが属します。多少の違いはありますが、ほぼ「tê・テー」の発音で広がっています。なお、ハワイ語では「kī」(キー)と呼びます。この独特な発音の理由は、ハワイ語に「t」の音がなく「k」と区別されないため、英語のteaが「キー」となったことによるそうで、「tê・テー」系統と言えます。ちなみにヨーロッパ諸国の中で、ポルトガルだけは、唯一「チャ」と発音する国です。これは、当時ポルトガルが広東省のマカオを統治していたため、広東語系列の呼び名となったためです。
「チャ」系統
チャ
・北京語(茶)、広東語(茶)、日本語(茶)、チベット語(ཇ )
・ポルトガル語(chá)、タイ語(ชา)、ベトナム語(chè)、ネパール語(Ciyā)
・ラオ語(sa)、朝鮮語(차)、イラン語、ベンガル語(cā)
・チャイモンゴル語(цай)、ロシア語(чай)、トルコ語(çay)
・ヒンディー語(चाय)、スワヒリ語(chai)、ポーランド語、
・ボスニア語(čaj)、チェコ語(čaj)、ギリシア語(τσάι)、ブルガリア語(чай)
・スロバキア語(čaj)、マケドニア語(čaj)、アルバニア語(çaj)
・セルビア語(чај)、スロベニア語(čaj)、ペルシア語(چای)、ベラルーシ語(čaj)
・キルギス語(çay)、アゼルバイジャン語(cay)、クロアチア語(čaj)
・ルーマニア語(ceai)、ウズベク語(choy)
チャーヤ
・ヒンディー語(chaya)
シャイ
・カザフ語(Şay)、アムハラ語(shayi)
・アラビア語(شاي)、ソマリ語(Shaaha)
チャハ
・カンナダ語(Cahā) ※南インドのカルナータカ州の公用語
「煎茶手帖 蝸盧 Karo - sencha note -」より
「テー」系統
テ
・福建語(te)、スペイン語(tè)フランス語(thé)、イタリア語(tè)
・チェコスロバキア語(tè)、マルタ語(te)ウェールズ語(te)
・アイルランド語(tae)、ガリシア語(tè)、デンマーク語(tè)
・スウェーデン語(te)、フィンランド語(tee)、ラトビア語(tee)
・ヘブライ語(תֵה)、カタロニア語(te)、グシャラート語(ti)
・朝鮮語(ta)、テルグ語(ti)、コルシカ語(tè)、クメール語(te)
・ ヨルバ語(tii)、イボ語(tii)、マラヤーラム語(ti)
テー
・オランダ語(thee)、ドイツ語(tee)、エストニア語(tee)、ラトビア語(tee)
・エストニア語(tee)、インドネシア語(teh)、マレー語(teh)、シンハラ語(tē)
・ジャワ語(teh)、スンダ語(teh)、マレー語(teh)、アフリカーンス語(tee)
・ 南インド(tey)、セイロン語(thay)、イデッシュ語(tey)
ティー
・英語(tea)、ラテン語(tea)、、ゲール語(tea)、ノルウェー語(te)
・ハンガリー語(tea)、クルド語(tea)、マダガスカル語(tea)
・マオリ語(tea)、コサ語(tea)、ハウサ語(tea)、サモア語(tea)
・タガログ語(tsa)、セブアノ語(tsa)、西フリジア語(tea)、ズールー語(tea)
・アルメニア語(թեյ)、ハイチ・クレオール語(tea)、ニャンジャ語(tea)
・ ジョージア語(თეა)、ショナ語(tii)、イヌクティトゥット語(ᑏ / tii)
ティヤー
・タミル語(Tēyilai)、ラトビア語(Tēja)
「煎茶手帖 蝸盧 Karo - sencha note -」より
茶は酒、タバコ、コーヒーは、心地よい香りと刺激を得ることができる世界の「四大嗜好品」の一つです。決して人が生きていくのに欠かすことのできないものではありません。中国を起点に世界中に広まり、その地で根付き、またそれを表す語がすべて中国語がルーツになっています。そしてアヘン戦争やボストン茶事件などその後の世界史を決定づける出来事は茶がその契機となっています。そうしたことから単なる嗜好品の域を超えたものが「茶」であると思います。
晩秋から初冬にかけてチャの木は、短い柄で枝にぶら下がるように下向きに3、4センチの花弁が抱え込むような丸っこい白い花をつけます。ツバキやサザンカに比べるとまことに地味ですが、とても清楚な花です。チャの木の開花はまさに今がその時期です。
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