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執筆者の写真木津宗詮

初天神

1月25日は天神さんの縁日初天神です。天神さんは平安時代の著名な政治家であり大学者菅原道真のことです。道真は政敵藤原時平の讒言にあい九州太宰府に流されます。そして非業の死を遂げ、雷神となり都に落雷などの災害をおこしその恨みをはらします。当時の人々は道真の祟りと信じ、時の朝廷はそれを鎮めるため北野天満宮を建立し道真を神として祀りました。

幕末の僧で大徳寺465世住持文渓宗郁(ぶんけいそういく)の賛になる三井高福(みつい・たかよし)が画いた天神像です。

三井高福は三井家第八代当主で、三井銀行・三井物産を興して三井財閥形成の基礎を固め、新政府の政商筆頭です。

『太平記』巻十二に、


一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。


一条院より、正一位太政大臣の官位を贈ることにしました。伝達の勅使が安楽寺に向かい、詔書を読み上げている時、天から声があり、一首の詩として聞こえました。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。このことがあってからは、神の怒りも鎮まり、国土も安定しました。なんともすばらしいことではないでしょうか、仏や菩薩を尋ねてみれば、広大にして、深遠なる慈悲の観世音菩薩がお持ちの、衆生救済の願いは、深く大きなもので、救済するため衆生を乗せた舟が、浄土に到達しないことなどありません。

建武の新政がなり後醍醐天皇に公卿より大内裏造営の提案があり、地頭、御家人らから費用を徴収し、実施することになりました。内裏の説明が延々と続きます。かって内裏が何度も火災に遭っていますが、その原因の一つに、菅原道真の祟りのせいだと考えられ、道真の出世と没落、藤原時平の陰謀、そのため起こる不思議な公卿、朝廷の不幸、内裏の火災などが語られます。そして、その祟りを鎮めるために一条院が勅使を派遣し、正一位太政大臣の官位を贈りました。するとこの七言絶句がが天より聞こえ、その後、道真の怒りも鎮まり、国土も安定したということが書かれています。文渓宗郁はこの詩が書かれた御宸翰の画賛より写したと記していて、その当時にはその軸が存在していたと考えられます。


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