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吉祥草



 茵

 蒲

工夫綿密、坐破

一團、長慶膝下

何渉多端

  生苕叟書(印)


 茵蒲(いんぽ)

工夫綿密(くふうめんみつ)、一団を坐破(ざは)す、長慶膝下の、何ぞ多端に渉(わた)らん

長慶は古嶽に就いて力を尽くし励んで坐禅にいそしんだ。その修行は徹底したもので、坐蒲(ざふ・坐禅の時に用いる敷物)が破れるほど徹底したものである。長慶の膝下、すなわち長慶その人は悠然と坐して、何一つあくせくと求めるものが無い、まさに「無一物」、悟りの境地に至っている。


 戦国の雄三好長慶(みよしながよし)の参禅の師である古嶽宗亘(こがくそうこう)が長慶の禅の力量・境地が大層勝れていることを讃えた内容の軸です。茵蒲は釈迦が成道する時、草刈り人が差し出す吉祥草を受取り、ピッパラ樹(菩提樹)の下で吉祥草を敷き詰めた金剛宝座で、結跏趺坐(けっかふざ)して深い瞑想に入った故事に基づいています。

 古嶽宗亘は、字は古嶽、生苕或は苕波、又は夕巢庵と号しました。大僊院派の始祖で、(龍寶山大德禅寺世譜、寶山住持世記上)近江蒲生郡の名族佐々木氏の出です。4歳の時既に文殊の五字咒を暗誦し、強記を歎称されました。8歳で岩間寺の義済に就いて落髮し、11歳の時、建仁寺の喜足噱公に就き、23歳、大德寺の春浦宗珉に参じ、その後、如意庵の実伝宗真に20年師事し、ついにに印可を得ました(本朝高僧伝第四十四、龍寶山大德禅寺世譜)。永正6年9月大德寺に出世し、第76世となり、大仙院を創立して退去しました(紫巖譜略、龍寶山大德禅寺世譜)。足利義稙や藤原房冬、同公光等が参禅しています(本朝高僧伝第四十四)。大永元年10月、後柏原天皇から佛心正統禅師の号を賜わり、後奈良天皇は師礼をもって古嶽を遇し、しばしば下問され、特に帽子を著し、肩輿に乘つて宮中に入ることを許されました。天文5年には後奈良天皇は正法大聖国師の徽号を下賜されました(龍寶山大德禅寺世譜)。古嶽は堺の南莊舳松の一小庵を見て小憩の地とし、大永6年8月南宗菴と改称しました(古岳和尚筆南宗庵改称偈)。同庵はのちの南宗寺の先蹤をなすものです。古嶽はこの小庵において、その弟子宗桃に宗套の諱を与しています(古嶽筆宗套名取状)。古嶽は特に詩文に長じ、書を能くしました(続本朝画史卷之下)。天文17年5月大仙院に病臥し、6月に至つて重体に陷り、観修寺大納言藤原尹豊を勅使としてその疾を問はしめらる光栄に浴しています。24日起座して遺偈を書いて、84歳で亡くなりました。

 三好長慶は、父は阿波・山城守護代三好元長の子で、幼名千熊丸、通称孫次郎、実名ははじめ範長。伊賀守、筑前守、修理太夫と称しました。天文18年六月摂津江口の戦で晴元軍に大勝、入京して天下人となります。同22年七月足利義輝を近江へ追放し、事実上の独裁政権を樹立し専制政治を敷き、分国は山城・丹波・摂津・和泉・淡路・讃岐・阿波の七カ国におよび、のちに河内・大和を併合し分国数では北条氏と並ぶ大大名に成長します。堺や安宅水軍を擁し鉄砲など最先端の軍事技術を保有する半面、キリシタンを受容するなど特異な性格を持ちました。しかし晩年は家宰松永久秀の台頭に押され、嫡子義興を失い、将軍義輝との調整に悩みながら失意のうちに病死しました。文芸に秀で、連歌の名手でもありました。

 流儀では歴代の家元が吉祥草を各種道具の意匠に用いています。写真は愈好斎好みの吉祥草絵炭斗です。


 吉祥草は本州、関東地方以西から四国、九州それに中国にも分布しています。濃緑色の葉で、9月から12月ごろに淡紅紫色の花を咲かせます。名前は、この花が開花すると吉祥があるとか、植えている家の吉事のときに花が開くとかいわれています。夏椿を沙羅双樹とかシナノキを菩提樹と呼ぶように、釈迦への追慕の想いから、元来、別の植物であるものを釈迦に関わる植物になぞらえての命名です。吉祥草も同様の想いから名付けられたとも考えられます。

 12月から8日の未明まで禅宗の僧堂では朧八接心が始まります。「雲水殺し」の異名をとる厳しい修行です。釈迦が金剛菩提樹の下で吉祥草の上で悟りを開いたことを記念してのものです。




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