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執筆者の写真木津宗詮

清暑

更新日:2020年12月11日

 昭和14年(1939)2月、風邪をこじらせ病床に就き、5月には同10年から設計に携わっていた田利吉邸五風荘の披露茶会が催されるが病床のため参加できなかった。同月11日、近衛文麿の実弟水谷川忠麿が伏見町四丁目の自宅に見舞いに訪れている。その折、一乗院宮尊応親王から松斎が拝領した御庭焼仁清掛絡香合と珠光好の十八公食籠を用いて茶を呈している。松斎が拝領した時同様、織部饅頭を入れてもてなし、紫山は大層喜んでいる。この時の薄茶の茶会が聿斎最後の茶会となった。 床  高天治部卿筆 香合添状 花入 魚籠  花  菖蒲 香合 一乗院御庭焼 掛絡   仁清造 茶碗 明石焼 菓子 織部饅頭  器  珠光好 十八公食籠 聿斎は、水谷川忠麿に見舞ってもらったことをまことに名誉なことと喜び、また祖父松斎が水谷川家の由縁の一乗院より拝領した品を、親しく見てもらえたことをこの上もなく意義深いことと感激している。そして後日、聿斎が興福寺の静観寮を設計建築した時の記念として、大徳寺三門の松古材を以って堀部且哉に写させた同菓子器を、川上邦基の手を経て贈っている。なお、その時の水谷川忠麿の礼状を受け取った直後、トロンボーゼ(血栓症)による発作をおこして意識不明となるが、持ち直し、その2週間後に2回目の発作があり、再び意識不明となった。そのころ、水谷川紫山が返礼として、美術史家蜷川第一(ていいち)を通じて兄近衛文麿が「清暑」と記した伊藤陶山の作になる茶碗を贈っている。この時、聿斎はほとんど意識がなく、この茶碗を見ることはなかった。そして同月二29日6時30分に七78歳で逝去している。翌30日、願泉寺において密葬され、8月3日に葬儀が行われた。喪主を長男で『武者の小路』を主宰していた乙象が、葬儀委員長を戸田露綏が勤め、花笑斎はじめ親族、愈好斎や友人総代として朝日新聞社長上野精一、社中総代小曽根凌雪等の同門流友の参列を得て盛大裡に行われた。

 今年は例年になく長い梅雨でした。そしてようやく先日梅雨明け宣言が出されました。すると今度は連日の猛暑です。その暑さを「清暑」、清い暑さと思える境地になりたいものです。まさに禅の悟りの境地をいうのでしょう。恵林寺の山門で織田信長に焼き殺された快川和尚が最後の言葉とされる「心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し」です。私にはそんな境地にいたることは生涯ないことです。せめて「暑い、暑い」と口ににせず、少しでもこの暑さを気にせず、坦々と受け入れることができるようになりたいものです。

 近衛文麿が認めた「清暑」の茶碗には、病に臥る聿斎に、うだるような真夏の暑さを忘れ、療養専一にとの思いが込められていたのでしょう。








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