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友斎焼

友斎焼 正野猪五郎(しょうのいいごろう)は、日野椀とともに日野を代表する商品として家伝薬「萬病感應丸(まんびょうかんのうがん)」を製造販売する商家正野家の6代目当主です。猪五郎は代々の当主名である玄三(げんぞう)を名乗り、友斎(ゆうさい)・尚孝・友聲あるいは素竹と号し、商人であるばかりでなく、初代木津松斎宗詮に茶の湯を師事し、他にも俳諧を好む文化人でした。晩年、松斎を通じ陶家を紹介され、また松斎の指導を受けて製作技術を身につけ、自邸の庭に窯を築き「友斎焼」として作陶しました。赤楽をはじめ飴釉や緑釉を総掛したものや、鉄絵を施した織部風の茶碗や花入・香合・水指・火入・皿・などを造っています。

松斎の箱書になる友斎焼赤茶碗です。銘の「石公」とは黄石公(こうせきこう)という中国秦代の隠士。前漢の高祖劉邦(りゅうほう)に仕えて多くの作戦の立案をし、そのの覇業を大きく助けた張良(ちょうりょう)に兵書『六韜(りくとう)』を与えたとされています。 張良が始皇帝を暗殺しようとして失敗し下邳(かひ・現在の江蘇省北部)に身を隠していた時に一人の老人と出会いました。老人は沓を橋の下に落として、横を歩いていた張良に「拾え」と命じ、張良は怒らずそれに従いました。老人は一度は笑って去りましたが、後に戻ってきて5日後の朝に再会を約束しました。5日後、先に来て待っていた老人は、日が昇ってから現れた張良に「目上の者との約束をしておきながら遅れてくるとは何事か」と、また5日後に会う約束をしました。張良は次の5日後、日の昇ると同時に約束の場所へ行ったものの、老人は既に来ていて以前と同じことを言いました。三度目には日の昇る前に行くと老人は後から来て、「その謙虚さこそが宝である」と言い、張良に「太公望兵書(六韜)」を与え、「この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう」と告げました。さらに「13年後にまた逢おう。済北の穀城(こくじょう・現在の山東省東阿県)の下にある黄色い石が私である」といいました。黄石公の予言はすべて的中し、張良は、穀城の黄石を得て、これを祀ったとされています。 形が沓形であることから黄石公の沓にちなんだ命銘です。まことに珍しい松斎の書付が施された友斎焼です。










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