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高山右近

 高山右近について興味をもっていたことから、平成25年(2013)に友人とともに右近終焉の地であるマニラを訪ねました。そして翌26年が右近の四百年忌(仏式)にあたり、その遺徳を偲びカトリック高槻教会で顕彰ミサ、引き続き高槻現代劇場文化ホールでパネルディスカッション行われそれに参加しました。初めてミサというものを見て大変勉強になりました。その翌年27年が右近没後400年にあたり、日本のカトリック中央協議会が「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し、翌28年1月22日にフランシスコ・ローマ法王が認可し、昨日2月7日に大阪城ホールで列福式が執り行われました。列福式には、ローマ法王代理としてローマ法王庁列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿がフランシスコ・ローマ法王の書簡を代読し、列福を宣言しました。

 高山右近は天文22年(1553年)に摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人で三好長慶、のちに和田惟政、荒木村重に仕えた友照の嫡男として生まれました 。通称は彦五郎。右近は私的な名で、官位は大蔵少輔、諱は重友(しげとも)。 号を南坊と称しました。洗礼名はジュストで、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味します。

 父友照が大和国宇陀の沢城主であった頃、奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受け家族と家臣を洗礼に導いた時に右近も洗礼を受けました。右近10歳の時のことです。右近はジュストの洗礼名を得ました。なお、父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリアでした。

 高山親子は荒木村重の支配下で高槻城主となり、友照は当時21歳の右近に高槻城主の地位を譲り、天正4年(1576)、オルガンティノを招いて復活祭を行い、翌4年には1年間で4000人の領民が洗礼を受けキリシタンが70パーセント以上に達しました。自らはキリシタンとして教会建築や布教に力を注ぎ、領内の神社仏閣を破壊し神官僧侶は迫害を迫害しました。このことはのちの右近に大きな影響を与えました。

 荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した時、右近は村重への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようと村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノから「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」との助言を得ました。そして信長は右近が金や地位では動かないと判断し、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅しました。右近は城内にあった聖堂にこもり祈り、ついに武士を捨てて信長に領地を返上することを決めて紙衣一枚で城を出て信長の前に跪きました。このことが荒木村重の敗北の一因となり、その功績が信長に認められ右近は再び高槻城主としての地位を安堵され2万石から4万石に加増されています。

 天正10年(1582)6月に本能寺の変で信長が没すると、右近は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の幕下にかけつけ山崎の戦いでは先鋒を務めて光秀を敗走させた功を認められて加増されました。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転し、大坂築城の際には大坂に教会を建るのに尽力しています。その後、右近は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦しています。

 右近の影響を受けて牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などが洗礼を受けました。また、洗礼を受けませんでしたが、キリシタンに対して好意的であった細川忠興・前田利家も右近の影響を多分に受けています。それに対し、父友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えました。現在、高槻は畿内であるにもかかわらずその周辺には古い神社仏閣の建物や仏像がほとんど残っていないという異常な状況になっています。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があります。それに対し、ルイス・フロイスの『日本史』等のキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となり、そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されています。

 播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられて船上城を居城とし、明石教会を建設しました。信長の死後豊臣秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続しますが、まもなく九州征伐の途中でバテレン追放令を出し、キリシタン大名には苦しい状況となります。右近も棄教を迫られましたが、「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答え、明石の領地を剥奪、追放され、小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住み、のちに前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き1万5,000石の扶持を受けることになりました。なお、小田原征伐では前田軍に属して従軍していいます。慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて加賀を退去し、大坂から船で長崎にに向かい、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、マニラに43日後の12月に到着しました。

 右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けました。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、マニラ到着からわずか40日後である翌年の1月6日に63歳で亡くなっています。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間で盛大に行われ、その亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。のちに右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられましたが、1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物はマニラ大司教区の所有となり、右近の遺骨と画像は行方不明となり今日に至っています。現在、マニラのディオラ広場には高山右近像が立っています。また、右近の死後、その家族は日本への帰国を許され、石川県羽咋郡志賀町、福井市、大分市にその子孫が現存しています。

参考文献・中西裕樹編『高山右近』等


マニラのディオラ広場には高山右近像、

カトリック高槻教会の高山右近像。


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