葵祭
- 木津宗詮
- 2020年5月15日
- 読了時間: 4分

葵懸簾といへる事をよめる
按察使前大納言有長
諸かつらかくるあふひの珠すたれ
いく世みとりの色やかさねむ
幕末の公家綾小路有長の「葵掛簾」懐紙です。青々とした双葉葵を掛ける御簾はどれほどの時代を重ねたことであろうという意味です。

今日は「葵祭・賀茂祭」です。枕草子に「四月、祭りのころいとをかし」とあるように、平安時代、単に祭りといえば葵祭のことをさしました。葵祭は石清水祭、春日祭と共に「三勅祭」の一つです。また「京都三大祭」の一つで、正式にはは「賀茂祭」といいます。下鴨神社(賀茂御祖神社)と上賀茂神社(賀茂別雷神社)の例祭で、毎年5月15日に行われます。ちなみに、石清水八幡宮の「南祭」に対し、「北祭」とも呼ばれました。葵祭という名の由来は、祭りの当日に内裏の御簾をはじめ、牛車・勅使・行列の人々の冠や装束、牛馬など全てを葵と桂の葉で飾ったことによります。これを「葵桂(あおいかつら・きっけい)・懸蔓(かけかづら)」といいます。


葵は下鴨神社のご祭神玉依比売命(たまよりひめのみこと)を表わし、桂は松尾大社のご祭神大山咋神(おおやまぐいのかみ)を象徴しているとのことです。玉依姫命が川を流れてきた丹塗り矢に感応して生まれた子どもが上賀茂神社のご祭神賀茂別雷命 (かもわけいかずちのみこと) です。そして丹塗りの矢が松尾大社の大山咋神であったとされています。また、地表近くに生える葵は女性で陰、天にむかってそびえる桂は男性をあらわして陽であるという説もあるそうです。なお、賀茂別雷命 の「向日 (あおい) カツラヲツクリテ予ヲ祀レ」 にも基づくとのことです。
下鴨神社では桂の枝に葵を懸け、それぞれの葉にまた葵を懸け、再びその葉に葵を懸ける姿です。上賀茂神社は桂の枝に双葉の葵を絡ませ、葵を2連、4連と絡ませて装飾場所によって大小を使い分けて飾るそうです。

ちはやする加茂の社のあふひくさ
かけてひさしき世をいのるかな
江戸中・後期の歌人で下鴨神社祠官の梨祐為の掛葵画賛です。加茂の社の葵草を掛けて末永く平和な世の中を祈る。同社の神紋が双葉葵で、「葵・あふひ」は「会ふひ」で神の力を示すことを表しています。なお、祐為は幼少のころより和歌を好み、冷泉為村の門に学びました。1日に1000首をつくる早吟(そうぎん)で知られ、線香3寸を立ててその燃え尽きる間に50首を詠じ、一生に詠んだ歌は十万首に達したといわれています。
葵祭の起源は、欽明天皇の時代に国内に風雨がはげしく五穀が実らなかったので、賀茂の大神を占うと、賀茂の神々の祟りで、勅命で4月の吉日に祭礼を行ったことが起源です。平安時代の弘仁10年(819)には国家的行事になり、応仁の乱で中止となり、その後元禄7年(1694)に再開され今日にいたっています。
祭儀は「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の三つで構成され、現在行われているのは「路頭の儀」と「社頭の儀」となっています。「路頭の儀」は、勅使や検非違使(けびいし)・近衛使(このえつかい)・内蔵使(くらつかい)・山城使(やましろつかい)・馬寮使(めりょうのつかい)らによる本列と、斎王代(さいおうだい)ら女人列により構成されます。総勢約500名、さらに馬数十頭、牛、牛車、輿なども加わった大規模な列で、その様は風雅な王朝行列を彷彿とさせます。京都御所を出発し、下鴨神社に着き、さらに上賀茂神社への約8kmの道のりを進みます。
「社頭の儀」は、行列が下鴨神社と上賀茂神社に到着した時、それぞれの社頭で行われる儀式のことです。勅使である掌典職(しょうてんしょく)の掌典が御祭文(ごさいもん)を奏上し、御幣物(ごへいもつ)の奉納、神馬の引き回し、舞人による「東游(あずまあそび)」の舞が行われます。
「斎王」とは、賀茂神社に御杖代(みつえしろ)として仕えるために皇室から差し出された内親王・女王のことです。嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王が斎王になって以来,同祭に奉仕するようになりました。その後、第35代禮子(いやこ)内親王(後鳥羽上皇の第11皇女)を最後に途絶え、再び置かれることはありませんでした。そして昭和31年(1956)に斎王に代わる斎王代を中心とした女人列が復興しました。
今から6年前に娘が女人列の童女に加えてもらい、またわたしも大学時代4回東游で奉仕させてもらいました。葵祭は格別思いの深い祭りです。

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