• 木津宗詮

溺愛

 江戸中期の画家三熊思孝・花顛(みくまかてん)の桜花図です。

名は思孝、字は海棠、別に介堂と号しました。長崎の大友月湖に学び、のちに、


凡そ麟鳳および龍虎獅象のごとき、見もしらぬものをゑがくは唯一旦の眼をよろこばしむるのみにて、世に益なし。古き代の公事民間の有さまをうつし伝ふるやあるひは今の世の人物調度眼にふるる物を図して後にしめすこそよからめ


と、竜虎や鳳凰など見もしないものを描いても仕方がないとし、


桜は皇国の尤物にして異国にはなし、是をゑがくは国民の操ならむ


として各地に桜をもとめて旅をし、桜を描くことに専念しました。花顛の桜はとても緻密な描写で表現されています。同じ画面上に、桜以外の他の事物を組み合わせず桜花だけの世界にこだわりました。そして「桜花袖鏡」という一枚絵を出版しました。これは当時の京都の花案内図で、「初桜」「花盛りの時」「遅桜の類」として二十四の桜を紹介しています。

 なお、花顛は伴高蹊著になる『近世畸人伝』の挿絵を描き、また続編は花顛が文を書き妹の三熊露香が絵をかいています。


たのむぞよ析骨にして桜の木


の辞世の句を残し、寛政6年(1794)40年間、桜に捧げた人生を終えました。享年65才。

 花顛の遺体は東山で荼毘に付され、遺骨は嵯峨の戸奈瀬の滝の前の流れに沈められました。生前この場所は桜がとても美しいところだと常に言っていたことによります。号の花顛の「顛」は「てっぺん」とか「ひっくり返る」とかの意味があります。まさに花顛の号に古今無双の桜の溺愛者の真骨頂をうかがうことができます。




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