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『松斎聞書 文化十一戌正月九日』2

一客迎に出候前に、手水鉢へ水張る時、手水鉢は杓にて濡らし候て、鉢へ水を張り申し候。手水鉢近辺、庭へは打ち申さず候。宗匠半宝庵にて初めて参り候の時、中門の内たつぷり水を打ちて、水鉢へ水を張り申され候ば、新しき庭にて落ち着き申さず候、庭も見苦しき候の事なり、いつもする事にてはこれなく申され候。


 客を迎付に出る前に、蹲踞の手水鉢の水を改めて水を張るとき、手水鉢の水を蹲踞柄杓で濡ら、鉢に水を張る。手水鉢の近辺の露地に水を打つことはしない。一啜斎が半宝庵で初めて迎付をしたとき、中門の内たつぷり水を打ち、水鉢に水を張ったのは、新しい露地なので落ち着きがなく、見苦しいので、普段する事と異なる事をしたのだとおっしゃられていた。


半宝庵での一啜斎の迎付

 現行、迎付で蹲踞の水鉢の水を改めるときには、鉢の水を蹲踞柄杓で上澄みを汲み出し、周りの灯篭はじめ役石、露地の立木に水をかけることになっている。一啜斎時分は水鉢のみに水をかけていた。半宝庵を新たに建て露地が営まれ、その最初の茶事で一啜斎が催した茶事の迎付のときの所作の模様と、その理由を記している。

半宝庵

 半宝庵は一啜斎好みになる茶室である。天明八年(一七八八)一啜斎二十六歳の時ときに、応仁の乱以来の被害を及ぼした天明の大火により武者小路千家が炎上し、苦心の末に官休庵はじめ直斎好みの弘道庵・一方庵等を再建している。天保元年(一八三〇)、一方

庵を大坂の社中平瀬家五代士瀾しらん・水すいに譲り、一方庵は大坂の浮世小路御霊筋うきよしょうじごりょうすじの「小路座敷しょうじざしき(浮世小路別宅)」に移築されている。その後、一啜斎は新たにこの半宝庵を建てている。そして一啜斎は茶室半宝庵から自身の署名も「半宝庵」と記すことになる。席名の「半宝」は『法華経ほっけきょう』見宝塔品(けんほうとうぼん)の「於宝塔中、分半座与(宝塔に中に於て、半座を分ち)」が出典と考えられる。それは釈迦が霊鷲山(りょうじゅせんで法華経を説いているとき、多宝如来たほうにょらいが出現し、釈迦を多宝塔の中に招き入れて、自らの座の半座を釈迦に譲り座るように勧めた。釈迦はその半座につき、二人の如来は並んで結跏趺坐(けっかふざ)したという内容である。

 茶席の中では、あくまで客と亭主の区別がはっきりしていて、互いにその領域を侵さない。席中ではあくまで平等ある。亭主は亭主、客は客の役割に徹して振舞うのが「賓主歴然」である。「賓主歴然」であれば、亭主が客の立場になり、客が亭主の立場となり、それぞれの立場に執着することなく、それぞれが自由自在に入れ替わり、互いが相手にとってことがうまく運ぶように気遣いをして、それぞれが自分の物事を進めることができる。これを「賓主互換」という。そして亭主と賓客の心が溶け合い一体となって、隔たりなくなった、いわゆる自他の相対した区別をなくした平等の世界を「無賓主」の境地、これが茶の湯の理想であり究極の姿である。一啜斎のそうした想いが、新たに好まれた茶室半宝庵に込められているのだと解釈している。現在の半宝庵は、幕末の嘉永の大火で武者小路千家が炎上し、明治十四年(一八八一)に十一代一指斎が武者小路の地に再興したときに再建されたものである。深い庇土間、躙口に向かい、連子窓右の壁面に大徳寺四百七十一世で聚光院の住職で、一指斎の参禅の師である牧宗宗寿筆になる「半宝庵」の扁額が掲げられている。その前の植込みに囲まれて灯籠と蹲踞が据えられている。なお、露地をさらに進むと左手に環翠園、その東南の塀際に外腰掛と雪隠がある。躙口は高さ67センチ、幅64センチくらいの片引きの板戸である。ところが半宝庵の躙口は高さ78・8センチ、幅143・9センチの板戸を二枚立てたもので、高さも少し高く、幅は倍以上ある。夏には板戸をはずして涼風を取り入れることができ、玄関の近くにあることから寄付や応接の用にも用いられる重宝な茶室である。

 間取りは四畳枡床で、正方形の松の地板からなる踏込床で床柱は赤松皮付、点前畳との取合壁には風炉先窓として下地窓がある。中柱は辛夷丸太で袖壁に二重棚を釣り、上げ台目切の炉を切っている。片引きの方立ての茶道口と引違いの給仕口がつけられ、一間の引違いの腰高障子の貴人口がつけられている。天井は点前畳の上が蒲の落天井で白竹三通りで押さえ、残り三畳が黒部杉の網代を篠竹二本の竿縁七通りで押さえている。

 半宝庵写しの席に銀閣寺(慈照寺)の「集芳軒」がある。間取りは半宝庵と同じで、四畳枡床の席に中柱を立てた上げ台目切で、台目畳三畳の次の間がつき、躙口も幅が広く二枚の板戸引違いである。次の間との境の欄間は、家元環翠園と同じ武者小路千家の紋である。独楽文様である。同寺の十六世祥洲元禎じょうしゅうげんていは明治二十二年(一八八九)に一指斎に入門している。このことから集芳軒が一指斎の指図により建てられたのである。なお、同寺には一指斎好みの席「洗月」もある。

半宝庵での茶事

 今日確認できる半宝庵での最古の茶事の記録が、豊前小倉藩士で小笠原家茶道古流の十一代家元古市自得斎又市ふるいちじとくさいまたいちの「文政天保京江戸茶會記」(『武者の小路』第八年・第二号美和彌之助「半宝庵文政茶事」)に記された文政二年(一八一九)の初夏に好々斎が催した茶事である。好々斎が宗屋を名乗っていた修業時代のものである。初座は床に大竃(竜か)和尚の二字が掛けられ、寒雉かんちの小四方釜と奈良風炉、唐物平炭斗、真伯在判の朝鮮臨州海藻玉香合、南蛮の灰器が用いられている。後座の床は、花入に文叔の竹一重切銘「翁」に芍薬が入れられている。水指は大樋の赤、茶入に一啜斎が「祝」の大字を記した小棗を大津袋に入れ、堅手の茶碗、文叔追筒になる宗旦の茶杓、蓋置は青竹引切が取り合わされている。好々斎はこの年の二月十二日に一啜斎の末娘の宗栄の婿として武者小路千家に入家している。そうしたことからこの会は好々斎入家の自祝の茶事であったと考えられる。

 また同年の九月一日には、半宝庵を用いて朝茶事を催している。床に近衛応山信尋おうさんのぶひろが宗旦に宛てた書状が掛けられ、釜と風炉、香合、茶杓は前会同様で、直斎の竹組平炭斗、古伊賀水指、茶入は唐津の一啜斎在判、銀襴の仕帛、宗入の黒茶碗、茶が同じく綾ノ森、薄茶には茶桶が使われている。この茶事は急な会であったようで「朝ニ付急会」と記されている。なお「右二会宗屋ヨリ來ル」とあり、宗屋すなわち好々斎が亭主であった旨が記されている。

 そして大徳寺四三五世大綱宗彦だいこうそうげんの『空華室日記』を愈好斎が抜書きした『空華室日記抜録』に文政六年(一八二三)二月十三日に一啜斎は隠居して「休翁」と改名し、同時に好々斎の家督相続がなり、「宗屋」から「宗守」に改名している(「登仕録」)。そしてその披露の茶事を半宝庵で催している。同年十一月二十六日、大綱は大徳寺四二九世明堂宗宣めいどうそうせんの相伴として、大綱の弟子大拙宗統だいせつそうとうとともに茶事に招かれている。本席は半宝庵で、会記は以下の通りである。


軸 直斎狂歌茶湯とハ耳に傅ヘ目に傅へ心ニとめて一筆もなし、新瓢、香合 似唐物玉、花筒 石翁作 宗守誕生□作之銘、花 暖香梅、曲水指、盌 御本、茶入 島物丸壺、袋 シュチン、茶 綾森、杓 休翁銘末廣、飯、平 牛蒡 コマミソ、汁 チサ ウトメ、坪 油麩 ナメ 平タケ 大根クキ、吸物 豆布 ミソ、椀 納豆 ヨセクワヘ 薯蕷 カン 様ゝの玉をつかねし窓にとふゆきも半ハたからなりけり

後段 素麺 セリ ユハ シイタケ、後菓 有平糖

  

古市自得斎もこの年の十月、好々斎が半宝庵で行った口切の茶事に招かれている。


於半宝庵         宗屋亭

(掛物)直斎書

茶湯トハ耳に

釜  與次郎肩衝 直斎筥書

炭斗 瓢

香合 時代丸木彫

灰器 長入 燒抜

水指 織部 烏帽子箱

花入 一重 小筒 不見斎書付 銘振鼓 花寒菊 白梅

茶入 嶋物 真伯書付 帋シュチン

碗  紅葉御本

杓  一啜 銘末廣

薄茶入 左入鉤付


両者の会記を照らし合わせると、より詳細がわかる。掛物の直斎狂歌は、禅の「教外別伝 以心伝心 不立文字」同様、奥義は教えようにも、習いようにも、自分自身が修行を積まなければ体得できないという、宗旦作とされる道歌である。この軸に武者小路千家の九代当主となった好々斎の覚悟の程を見ることができる。茶杓は義父一啜斎の作で銘「末広」、一啜斎の歓喜の心と、好々斎と武者小路千家の順風満帆な船出を祝う思いが伝わってくる。そして実父である裏千家九代不見斎ふけんさいが好々斎の誕生を祝い、好々斎のために作った花入が使われている。古市自得斎の会記より、銘が「振鼓ふりつづみ」であったことがわかる。振鼓とは〝でんでん太鼓”のことで、好々斎に対する不見斎の慈しみが感じられ、またこの花入を用いていることに、好々斎の不見斎に寄せる追慕の念がうかがえる。なお、大綱の会記には釜と薄茶器の記載がないが、釜は直斎書付の与次郎作肩衝で、薄茶器は左入の弦付が使われたようである。また茶入には真伯の書付があり、茶碗は紅葉御本であった。この自祝の茶事は、これまで茶の湯の修行を積み重ねてきた好々斎が、家元として踏み出した新たな第一歩というべき茶事で、好々斎はすべての力を投入し、また一啜斎や妻の宗栄、家族、門人も一丸となり陰から支えたことが想像できる。

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