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利休形松木盆写し

利休二百五十年忌の記念に造られた利休形松木盆写は、松材の四方盆で、端反はたぞりの四隅を唐物の若狭盆に通じる洗練された入いり隅すみとし、松の木目を見せるように拭き漆がほどこされています。どのような茶入を載せても映り、菓子器にも用いられ、枯淡な味わいのある侘びた盆です。本歌の松木盆は、木津家3代聿斎宗泉の『官休清規』に「紹鴎所持なり利休へ傅へ利休より今小路道三に傅ふ」とあり、またのちの写しのものには、一翁が漆書で「昔松木盆 守」と認めていて、もとは古作の盆で、利休が所持していたことから利休形とされた盆といえます。一般的に利休形とは三つに分類できます。まず利休の作になるもので、例えば竹花入や茶杓等。それから利休が意匠や寸法を出し、それに基づき職人が制作した作品で、釜や釣瓶水指、手桶水指、楽茶碗等。そして利休が所持して愛用したもの、立鼓花入の「旅枕」や瀬戸黒茶碗の「小原木」等です。

この盆を制作するにあたっては、木津家初代松斎宗詮が利休二百五十年忌の折に記した「利休居士弐百五拾廻忌之節諸事扣」に、

宗守事ハ未ダ幼年故、好之品抔実ハ難出来故、是迠前々ヨリ形之有之候品ヲ贈リ度、此方之愚存ニ付、前年大徳寺ヨリ、宗守方ヘ贈リ被下候五老松ノ古木ヲ以テ、利休好ノ松ノ木盆ヲ摸さセ、右盆の底裏ヘ宗守之朱うるしニ而守と判とを認さセ、箱の蓋裏ヘ宗守の母知昌殿ニ書付いたさセ相贈る、此五老松と云ハ、大燈国師日唐之節、唐土ヨリ持渡リ、紫野ニ植置れし五本の松ヲ五老松と云、此松段々枯候、古木を大板ニ挽かセ、千三家ヘ五、六ケ年前、大徳寺より相贈候、夫故右松の古木を相用る     

以心斎が幼年であったため、記念の好みの品を造ることができないので、これまで伝わる形の品を造って贈ることを松斎が提案し、以前に大徳寺より贈られた「五老松」の古材を用いて、利休好みの松木盆を写させたとあります。そしてその盆の底裏に以心斎が朱漆で「守」と花押を認め、箱の蓋裏には好々斎の未亡人宗栄(知昌)が冒頭の書付をしました。五老松の記述で大徳寺の開山大燈国師(宗峰妙超)が唐土(中国)に渡って持ち帰ったというのは誤りですが、大燈国師手植えになる五本の松で、年を経て枯木となったのを大板に挽いたものが、大徳寺より三千家に贈られていたようです。宗栄の箱書にも「以龍寳山大燈国師所植五老松摸之」(龍寳山は大徳寺の山号)と同様のことが記され、盆の底裏に息子以心斎が書付をしている旨を、女性のものとは思えないほど、まことに堂々とした力強い筆跡で認めています。なお、「官休庵」とは、武者小路千家の当主のみが記すことのできる署名です。宗栄は未亡人となり、本来は表に出てくる立場でなかったはずですが、以心斎の目が不自由となったことで、当主としての役割を代行したことと、利休の直系の子孫であるという自負から、「官休庵」の署名をしたと思われます。また、箱には作者名がありませんが、黄梅院大綱宗彦(大徳寺四三五世)の日記『空華室日記』から七代中村宗哲の作であることがわかります。


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