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琴ノ浦 温山荘園(ことのうら おんざんそうえん)

明治時代から昭和前期の実業家新田長次郎の和歌山県海南市の別邸です。この別邸は新田の郷里、松山藩旧藩主久松定謨伯爵来阪の際の迎賓館兼新田家別荘として建造されました。また、久松伯爵の他に伏見宮文秀女王、桂太郎、清浦金吾、東郷平八郎、秋山好古などの皇族、華族が訪れています。

新田長次郎は明治21年に日本初の動力伝動用革ベルトを開発し、工業用ベルト生産によって一代で巨万の富を築き上げた近代日本屈指の富豪です。本館の設計は新田の娘婿木子七郎。木子は日本最初期の壁式RC造(鉄筋コンクリート)建築を手がけたことで知られる大阪の近代建築家です。欄間彫刻は高村光雲の弟子で、アール・ヌーヴォー室内装飾で著名な住友建築部出身の彫刻家相原雲楽。作庭指導と茶室の設計は3代木津聿斎宗泉です。庭園の規模は日本全国で17位、個人庭園としては日本最大。主屋、茶室、門など主要建造物9棟が国の登録有形文化財に登録されています。現在、温山荘は株式会社ニッタ関連四社が設立した財団法人によって維持管理されています。

新田長次郎は愛媛県出身で温山と号しました。5歳の時に父と死別し、明治10年大阪に出て米屋西尾商店に丁稚奉公しました。のち藤田組製革所の見習工に雇われ西欧式製革技術を習得し、同18年な大阪で妻のツルと妻の兄井上利三郎とで新田製作所を設立し製革業を始めました。技術の発明改良と事業経営の発展に努め、革製パッキングを始め、十数種類の特許を取り、北海道に工場を建設し、東洋一のベルト業者となりました。ベルト工業以外にゼラチン、ベニヤ、ゴム工業なども展開し、東京・名古屋・小樽に支店を置き、ボンベイ・満州などに進出しました。財界では大阪工業会の設立発起人にり、私財を投じて大阪市難波に有隣小学校や松山高商を設立するなど社会事業にも尽力しました。生涯で得た特許は29、実用新案は10、内外博覧会に出品し100にわたる最高賞牌受賞しています。

庭園は潮入式池泉回遊庭園で、面積は18000坪(約59,400平米)で、海から水を引き、潮の干満に応じて水位が上下する汐入りの池が主屋を中心に3つ配され、その周囲に茶室や座敷が点在しています。園内にあるトンネルを抜けると黒江湾を望むことができます。なお、かつては周辺の海と山も含めて50000坪(約15.200平米)の広大な敷地だったそうです。

茶室「鏡花庵」は大正9年に建てられたもので、聿斎宗泉の作例で唯一重要文化財の指定を受けている茶室です。茅葺屋根の四方に桟瓦の庇をもった田舎屋風です。9畳の広間周りに畳敷の入側を設け、調和よく借景の山と庭の景色を奥行き深く切り取っています。向かって左に雲板(織部板)の入った一間床、右に栃板を二枚重ねて下の板より上の方が大きく段になった書院。炉は四畳半切。天井は黒木の竿を格子に大きく割った中を萩で張り、障子の腰板にはベニア板が用いられています。入側の欄間は一指斎好みの独楽透が入れられ、板戸は目の詰まった良質な材料が使用され、外側が鎧張り状に見えるよう戸板を削りだすなど高度な技術が駆使されています。また、壁はモルタルが塗られています。聿斎の建築の特徴の一つが新しいものでも有益なものは積極的に取り入れるというものでした。新田の会社が開発した日本最初のベニヤ板やモルタル、人口の庭石などです。ちなみに庭石はセメントにコラーゲンを混ぜて作ったもので、ひび割れを防ぎ、苔も生えないというものです。なお、ベニア板は新田長次郎が北海道の工場で開発製造した日本最初のものです。当時アメリカから技術導入されたベニヤ板で、無垢の板を革の膠で貼り合わせた非常に高級な素材であったそうです。今でもこのベニヤ板は株式会社ニッタが高級車の木目ダッシュボード用に少量生産しているそうです。

主屋等の設計者の木子七郎は、宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれています。木子清敬は東京帝国大学で日本建築を講義した和風建築の権威です。また、聿斎が12歳の時に宮内省の内匠寮で建築を学んだ折に木割の指導を受けています。兄、木子幸三郎も宮内省内匠寮技師として活躍しています。七郎は東京帝国大学卒業後、大林組に入社し、新田帯革製造所の建築を担当しました。その後、新田長次郎の知遇を得て、新田家の建築顧問となり、長次郎の娘勝子と結婚して大林組を退社・独立しました。黎明期の大阪で和洋を巧みにこなす建築家として活躍しました。代表作に旧山陰合同銀行出雲支店(現・本町会館)・旧久松伯爵本邸(現・萬翠荘)・旧新田利國邸(現・松山大学温山記念会館)愛媛県庁舎・石崎汽船旧本社・

関西日仏学館(現・アンスティチュ・フランセ関西-京都)などがあります。


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