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秋泉御茶室



秋泉御茶室  昭和四年(一九二九)貞明皇后のために青山に新たに大宮御所が造営された。なお、昭和二十六年(一九五一)五月十七日に貞明皇后が崩御し、六月八日に貞明皇后と追号されている。大正天皇の崩御によりそれ以降、生前中は単に皇太后と呼ばれていた。大宮御所には、別棟として拝殿と御影殿(みえいでん)が造営された。御影殿には皇太后宮大夫の入江為守が描いた大正天皇の肖像画描が掲げられた。そして皇太后の意向で茶室を築造することとなり、聿斎はその御茶室の設計・施工の御下命を受けるという栄誉に浴している。その橋渡しをしたのが川上邦基である。なお、川上と聿斎は平瀬露秀が結んだ縁がもととなっている。なお、新御殿は島崎組が請負、御茶室はそれとは切り離して施工している。  「宮内省御用 御茶室造営 作業所」の看板を掲げ、大工棟梁は児島久兵衛、副棟梁は藤原新三郎、眞田清三郎、従事者に眞田亀三郎らで、切組一式を大阪で行い、それを東京に運んで建て上げている。なお、藤原の下からは平田雅哉が、眞田亀三郎の下からは田尻亥之助ら、優秀な数寄屋大工が育っている。  昭和秋泉御茶室の竣工は同年秋であった。昭和二十六年(一九五一)八月発行の『茶道月報』に川上邦基が「秋泉御茶室の思い出」として、在りし日の秋泉御茶室の面影を詳細に記している。長文であるが以下に引用する。

秋泉御茶室は、御常御殿と称する大きい建物と、其付属建とで三方を塞いだ中庭とも云ふ可きところに建てられ、御常御殿から前方の大正天皇御霊殿への渡廊を横切って露地に入り腰掛を経て入席するもので、大体四帖半下座床正面に三尺の榑板縁を付し、其右方に手洗を備へ、左側に別に貴人口を開いた。  縁から障子を開いて入席すると、正面左半が床、右半が障子をへだてて侍者畳台目一帖、右側は壁で奥に茶道口がある。左側は前半を貴人口、後半は左右に書棚を備へた書院がある。茶道口から水屋に入れば台目二帖を敷いて余間を板とし、そこに引違障子があって出入口とし、水屋棚は右奥に据えられた。また侍者畳の奥に三帖があり、左方に階二級があって御常御殿の廊下に通ずるのであるが、前に記した御茶道具戸棚をここに置いたため畳は本畳一枚台目畳一枚ということになった。御常御殿からの御入席には御廊下から階二級を下りて侍者畳を通られる外なく、侍女の人々は、同じく御廊下から三尺の縁に下りて片開戸から水屋へ入るのであった。  屋根は瓦葺で、正面縁から駆込天井の部分は、板葺の板を銅板で包んで張ることにした。しかし実際には板葺らしく見える型押の銅板で張ってしまった。わたくしはこの型押板の使用を極力反対したが終に及ばなかった。壁は聚落土を使用させた、これもわたくしが頑張った良い土を取寄せ、外部には鉄粉を混ぜて錆壁とし用ひた。腰掛は宗旦好の型で、ただ右端に正方形に近い貴人座を設け、そこに茣座を敷いた、そして袖壁に金属製の釣灯籠をさげた。露地の石灯籠は、腰掛の前に修学院離宮にある滝見灯籠を模して据ゑ、また書院からの眺めには仙洞御所日月灯籠に範を採ったものを据ゑた外に、書院の前に松花堂形を据ゑ、また貴人との袖壁に木製釣灯籠をつけた。これら灯籠の火に就ては種々研究した末、火袋下部に電球を埋め込んで、極めて淡い光を反射させる様にしたが、灯籠の数が多いので可なり明るく、電灯を暗くするのに骨が折れたが、内匠寮電気係の人々の好意で満足な効果ををさめることが出来た。

とある。昭和二十年(一九四五)二月二十五日の東京大空襲で大宮御所は焼失してしまい現存していない。また貞明皇后のプライベートな空間ということで、写真や記録がほとんど残されていず、この川上の記述はまことに貴重なものである。  すべての工事が終了したのち、検収も無事に終え、東久世秀雄内匠頭から聿斎と川上に賞詞が与えられ、両人は無上の面目を施している。  なお、御茶室の室名は当時の皇太后宮太夫入り江為守の歌、 すみわたる秋の心を語るらむ 萩の下ゆくましみずのおと から謹撰し「秋泉」と命名された。  これに続いて御用道具の御調進御用命に対し、特定の流儀の品を納めることは不都合であるということで、三千家と薮内家・木津家からそれぞれ調進することを申し出て、それぞれの家から納めることとなった。貞明皇后が特定の流儀を超えた道具を使用されると信じてのことであった。なお、聿斎は貞明皇后が用いる御道具を微臣が携わること自体恐れ多いことであるということから、すべての道具の箱書に別号や雅号を用いず実名を用い「臣宗一 謹案」と認めている。  そして翌年の春、木津宗詮の世襲の号を、一代限り宗泉とせよとの恩命を賜り、東久世内匠頭から以下の書面を送られている。


冠省 御茶室工事には永々御苦労に存候、此度御名秋泉と被仰出候に付ては、貴老襲世の宗詮を一代限り泉の字に改め、永く記念せられては如何と一寸思ひ付候に付、右御勧申上候 早々  昭和五年春 東久世秀雄 木津老台侍史


この年、古稀を迎えた聿斎にとっては、まさに業なり名を遂げた一代の光栄であった。



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