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2代得浅斎宗詮3 一指斎の後見

 得浅斎は、松斎の茶の湯を義母の柳とともに支えた。武者小路千家は此中斎の離縁により、急遽新たに後継者を迎える必要に迫られた。「登士録」に、嘉永5年(1852)3月22日に表千家の吸江斎の息子で、以心斎の甥にあたる辰之助、のちの一指斎が再養子として入家している。辰之助が5歳の時のことであった。「松平家譜」には、同5年4月19日に、「茶道格別之家筋」ということから、未だ幼年ではあるが、十人扶持を支給され、家業である茶道を十分修行するようにとの仰せがあった。そして同11月12日に辰之助は剃髪して宗屋と改名している(「松平家譜」「登士録」)。なお、一指斎は大綱に諱の有方と斎号も命名されている。この一指斎の入家について得浅斎も松斎も大綱の日記等に記録は現れていない。

 同7年(1854)、高松藩主松平賴胤よりたねが将軍徳川家定(いえさだ)の上使として上洛した。1月二26日、一指斎は高松藩京屋敷において、得浅斎を後見として松平頼胤(よりたね)に初御目見(はつおめみえ)をしている。併せて慶入作の伝来古銅写水指を献上し、御茶を差し上げて正式に家督相続がなっている。この時、一指斎は7歳であった。翌27日には頼胤から松斎と得浅斎に白銀三枚を拝領している(『高松侯上使日記』)。得浅斎が33歳の時のことで、まさに円熟した年齢で、松斎は亡くなる二年前の76歳であった。

 なお、「松平家譜」には二年後の文久元年(1861)8月19日、一指斎14歳の時、茶道の修業も十分に積み、家業向きも上達したことが頼胤の耳に達し、以心斎同様の禄と役職を仰せつかり、宗屋から宗守に改名している。

 一指斎の初御目見で新たな第一歩を歩みはじめた矢先の4月6日、武者小路千家は嘉永の大火に罹災して炎上する。焼け出された一指斎はじめ以心斎とその家族は、実家である表千家に引き取られることとなり、流儀にとってかってない危機に陥った。記録には残されていないが、後見の得浅斎はその事後処理はじめ、今後の対応に追われたものと考えられる。

ちなみに、『旧高松藩士族名簿』に、得浅斎が一指斎を後見したことに対し、高松藩から銀七枚が支給されている。松斎が以心斎の後見をした時と同じように、高松藩が得浅斎に後見を依頼し、得浅斎は紀州藩の了解の上勤めたと考えられる。この銀七枚はそれに対しての高松藩の俸給である。松斎も同様の待遇を受けていたのであろう。

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