今日は吉田神社の摂社菓祖神社の春季大祭にお参りしました。ご祭神は田道間守(たじまもり)と林浄因(りんじよういん)の二柱です。菓祖神社は京都菓子業界の総意により昭和32年に兵庫県豊岡市の中島神社と和歌山県海南市の橘本神社、奈良市の林神社のご祭神を鎮め祀った社です。
田道間守は、『古事記』によると、日本に帰化した新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)の玄孫とされています。名は但馬(兵庫県)の国守を意味します。垂仁天皇に時期ではないのに香りたかく実る果実である「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を求めよと命じられ、海のかなたの不老不死の理想郷である常世国(とこよのくに)に派遣されました。10年かかってようやく葉つきの枝と果実つきの枝を持ち帰りました。ところ「非時香菓」を待っていた天皇は、その直前に崩じてしまい、永遠の生を得ることができませんでした。田道間守は半分を垂仁天皇の御陵に捧げ、残りを垂仁天皇の皇后に献上し、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなりました。奈良市尼辻町の垂仁天皇陵にはその墓といわれる陪塚があります。
田道間守が持ち帰った「非時香菓」は、記紀では現在の「橘」のこととしています。「タチバナ」という名前自体、「タヂマバナ(田道間花)」が転じたものとする説もあります。当時「菓」といえば果物のことで、この説話から田道間守命は菓子の神「菓祖」として信仰されています。ちなみに秦の徐福(じょふく)が、始皇帝の銘で蓬莱山に不老不死の薬を求めに行くというよく似た話しがあります。
なお、和歌山県海南市の橘本神社(きつもとじんじゃ)は、田道間守と熊野坐大神を祀る熊野九十九王子のひとつです。元は現在地の北の六本樹の丘に鎮座していました。六本樹の丘は田道間守が常世の国から持ち帰った橘の木を最初に植えた地と伝えられ、これが後にみかんになったとされています。
菓祖とされる林浄因は建仁寺の竜山徳見の帰国に従って来日しました。そして奈良に住して日本で最初にあんこの入った饅頭を作った人とされています。元々は中国の饅頭(まんとう)をヒントに作られものだったようですが、中国の饅頭とは肉や背脂の入ったいわゆる「肉まん」で、不殺生戒を戒律としている仏の供え物に使えないという事で考え出されたのが、小豆を煮詰めて味付けしたあんを小麦粉を練った皮に包んで蒸したものとされています。そしてその子孫がのちに饅頭屋の塩瀬となります。饅頭屋の元祖ということから、今日、菓子の神としてあがめられています。
近鉄奈良駅の西に漢国神社があります。その境内の一角に林神社と読ばれる小さな社殿があり林浄因が祀られています。浄因がこの神社すぐ近くに住んでいたとことによるとのことです。
栗田真秀(くりたまひで)画 田道間守図
中島神社
橘本神社
某菓子店の神棚に祀られた田道間守
田道間守の墓 垂仁天皇陵
林神社
塩瀬総本家
塩瀬饅頭
吉田神社摂社菓祖神社
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