初代松斎宗詮19 以心斎の後見

更新日:2019年10月5日

 武者小路千家8代一啜斎(いっとつさい)に入門し、引き続き次代の好々斎(こうこうさい)に師事した松斎であるが、天保6年(1835)一月二十二日、好々斎が41歳で亡くなったことにより、松斎の立場も大きく変ることとなる。武者小路千家には好々斎の義父一啜斎と義母智法(ちほう)、妻の宗栄(そうえい)が残され、好々斎と宗栄の間には宗普(文政三年九月十六日歿)という女子がいたようであるが、夭折しており、好々斎が亡くなった時には実子がいなかった。

 大綱の「空華室日記」天保6年1月24日に、松斎と大沢宗二が黄梅院を訪れ、吸江斎の弟、すなわちのちの以心斎を武者小路千家の相続人として迎えたいということで、その交渉を大綱に依頼している。その後、大綱が住山楊甫(すみやまようほ)を通じ表千家と交渉し、また武者小路千家では智法や松斎、宗二が大綱と何度か相談をし、同月10日に、当時、8歳の吸江斎の弟儀三郎を官休庵の当主にする了解を表千家から得ている。その後早速、高松藩にも、当時、6歳の儀三郎を好々斎の養子とし、武者小路千家の当主にすることの許しを得ている。約2カ月後の6月21日に、高松藩より正式に以心斎の家督相続が認められ、同時に宗守と改名している。そして以心斎の家督相続記念の「蔦茶桶」の製作に関する交渉を松斎は中村宗哲としている。

 当時、以心斎はまだ幼童であったため、一啜斎から真台子の相伝を受けていた松斎がその後見をすることになる。武者小路千家から松斎に、


  千宗守儀未幼年ニ而家業之茶道未熟ニ