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執筆者の写真木津宗詮

初代松斎宗詮25 一乗院門跡尊応入道親王

 尊応入道親王は伏見宮貞敬((ふしみのみやさだゆきしんのう)親王の第四王子で、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け、一乗院の41代門跡となる。のち粟田口青蓮院に移り、天台座主となる。勤皇家として活躍して安政の大獄に連座した。孝明天皇の信任が厚く,還俗を命じられ中川宮(なかがのわみや)のち賀陽宮(かやのみや)と称した。公武合体派の巨魁であり、明治元年(1868)、反政府運動の嫌疑で広島藩に幽閉され、のち許されて新宮家である久邇宮(くにのみや)家を立て、朝彦(あさひこ)親王と称し、神宮祭主兼造神宮使に任命され、没するまでその職にあった。明治二24年(1891)10月25日、67歳で没している。


久邇宮朝彦親王(一乗院門跡尊応入道親王) ウイキペディアより


 どのような経緯で松斎が一乗院と関係を持ったかは不明であるが、此中斎の実家新善法寺家は石清水八幡宮の社司で、当時の石清水八幡宮も一乗院と同じく真言宗であり、その関係からであったかも知れない。なお、一乗院最後の門跡で42代の応昭(おうしょう)は近衞忠煕(ただひろ)の八男で、還俗して水谷川忠起(みやがわただおき)と名を改め、男爵となり、春日大社の初代宮司となっている。忠起の養嗣子の忠麿(ただまろ)は一乗院が武者小路千家の茶の湯を行っていたことから、昭和14年(1939)2月に武者小路千家12代愈好斎に入門し熱心に茶の湯を嗜んでいる。なお、忠麿も戦後初の春日大社6代宮司に就任している。


水谷川忠起(一乗院門跡応昭) 春日大社蔵

水谷川忠麿 春日大社蔵

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