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執筆者の写真木津宗詮

土御門天皇祭

水無瀬忠政筆土御門天皇祭祝詞 です。


掛巻母畏伎水無瀬宮乃大前爾宮司従三位勲四等子爵水無瀬忠政恐美恐美白左久此乃御殿乎静宮乃常宮登鎮座須土御門天皇乃大前乎齋比奉留思出深伎一年爾一度乃今日乃御祭爾御饌御酒種々乃味物乎供奉里又千利休乃流乎汲米留官休庵千宗守宗匠我仕奉茶乎母捧奉留状乎平介久安介久聞食氐天皇乃大御代乎足御代乃茂御代爾守幸閉給比仕奉留百官人等四方乃國乃公民爾至留麻傅五十橿八桑枝乃如久立榮志米給登白須事乎聞食登恐美恐美母白須辞別氐掛巻母畏伎後鳥羽天皇順徳天皇乃大御靈等爾母今日乃御祭乎相共爾聞食登恐美恐美母白須又白左久支那乃無道伎事變爾天皇乃大命乃随爾猛久雄々志久彼乃國爾馳向閉留大御軍人等波白左久母更奈里國内擧里氐勤美仕奉礼留國民乎母夜乃守日乃守里爾守給閉登恐美恐美母白須

掛(かけ)巻(まくも)畏(かしこき)水無瀬宮の大前に、宮司従三位勲四等子爵水無瀬忠政、恐(かしこみ)恐み白(もお)さく、此の御殿(みあらか)を静宮(しずみや)の常宮(とこみや)と鎮(しずまり)ます、土御門天皇の大前を齋(いわいひ)奉(まつ)る、思出深(おもいでぶかき)一年(ひととせ)に一度(ひとたび)の今日の、御祭(みまつり)に、御饌御酒種々(みけみきくさぐさ)の味物(ためつもの)を供奉(そなえまつ)り、又千利休の流を汲める、官休庵千宗守宗匠が仕奉(つかえまつ)る茶をも捧奉(ささげまつ)るる状(さま)を、平(たいら)けく安(やすら)けく、聞食(きこしめし)て、天皇(すめらみこと)の大御代(おおみよ)を足御代(たるみよ)の茂御代(しげみよ)に守幸(まもりさきわ)へ給ひ、仕奉(つかえまつ)る百官人等四方(もものつかさらよも)の國の公民(たみ)に至留まで、五十橿八桑枝(いがしやぐわえ)の如く立榮(たちさかえ)しめ給と、白す事を聞食(きこしめせ)と恐み恐みも白す

辞別(ことわけて)、掛巻も畏き後鳥羽天皇、順徳天皇の大御靈(おおみたま)等にも、今日の御祭を相共(あいとも)に聞食(きこしめせ)と恐み恐みも白す、又白さく、支那の無道(あぢきなき)事變(わざわい)に、天皇の大命(おおみこと)の随(まにまに)、猛(たけく)雄々(おおししく)彼の國に馳向(はせむかへ)る大御軍人(おおみいくさびと)等は白さくも更なり、國内擧(くぬうちこぞり)て、勤(いそし)み仕奉(つかえたてまつれ)る國民(くにたみ)をも、夜の守日の守りに守給へと恐み恐みも白す


昭和12年(1938)11月13日、水無瀬神宮で斎行された土御門天皇祭で愈好斎が献茶を奉仕したときの祝詞です。この時、愈好斎により献茶道具一式が奉納され、副席を聿斎宗泉が担当しました。

祭主の水無瀬忠政は水無瀬家30代当主で、子爵・水無瀬神宮宮司・貴族院議員です。

水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)は、承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240)、藤原信成・親成親子が後上皇の離宮水無瀬殿の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まります。明応3年(1494)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じました。明治時代に仏式から神式に改められ、後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀しました。


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