大塔宮護良親王は後醍醐天皇の第一皇子で、6歳の頃に尊雲法親王として梶井門跡三千院に入りました。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことによるそうです。19歳で第117代、22歳で119代と2度にわたり天台座主を務めました。『太平記』には、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む例のない座主であったとあります。
護良親王は、父後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦します。赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり北条軍とゲリラ戦を続け、最後に京都六波羅探題を滅ぼす手柄を立てています。
建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛します。その後、足利尊氏が裏切ると確信していた息子護良親王と、尊氏を信頼していた父後醍醐天皇との関係は不和となっていきます。さらに、足利尊氏を暗殺する兵を密かに集めますが、その陰謀が発覚して征夷大将軍を解任され、鎌倉の東光寺に幽閉され、のちに殺害されました。
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