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執筆者の写真木津宗詮

天下の三名水

 「天下の三名水」とは、古来、茶の湯で尊重されてきた「佐女牛井(さめがい)」と「柳の水(やなぎのみず)、「三ノ間の水(さんのまのみず)」の三つの名水をいいます。


佐女牛井

 京都市下京区堀川通五条下ル西側、京都東急ホテルの直ぐ南の歩道の植え込みの中に「佐女牛井之跡」の石碑がひっそりと建てられています。その説明の駒札に、「佐女牛井」は京の名水として平安時代より知られ、源氏の邸いわゆる六條堀川館の中にとりいれられていました。室町時代には南都(奈良)の僧村田珠光がこの畔に庵居し茶の湯を嗜みました。8代将軍足利義政も珠光の庵を訪ねて佐女牛井の水で茶を飲んだとされています。その後も武野紹鴎や千利休などの茶人に好まれ、天下一の名水として有名になりました。

 元和2年(1616)には織田有楽斎が佐女牛井を改修しています。内径2尺4寸(約73センチ)の円井戸でした。その後、天明8年1月30日(1788)の天明の大火に罹災し埋もれてしまいましたが、寛政2年(1790)、藪内家6代竹陰によって修補され、その後、8代竹猗によって碑が建てられました。ところが昭和20年(1945)、大東亜戦争最末期の堀川通の拡張のため周辺の民家の強制疎開で円井戸と碑も撤去されてしまいました、昭和44年(1969)醒泉小学校百周年記念事業の一つとして、元の佐女牛井のあったあたりに新たに「佐女牛井之跡」の碑が建てられ、その名水を偲ぶよすがとされて今日に至っています。なお、以前さる美術商から聞いた話ですが、昭和30年代には佐女牛井の井筒は大和郡山のさる数寄者が所持していたそうです。その後、その数寄者も亡くなり井筒も処分されてしまい、現在は所在不明とのことです。

 ちなみに堀川通の一筋東を走る「醒ヶ井通(さめがいとおり)」や,附近の「醒泉小学校(せいせんしょうがっこう)」の名称はは佐女牛井に由来しています。醒ヶ井通は平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りです。








柳の水

 「柳の水」は京都市中京区西洞院通三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)の黒染めの染物会社内にある井戸です。「雍州府志」に、


  在西洞院三条南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至清冷也、植柳於井上避日色、因号柳

  水、千利休専賞批水点茶、故茶人無人無不汲之


織田信長の三男信雄(のぶかつ)の屋敷跡の井戸で、清麗な水が湧き、井戸のそばに直接陽が射すのを避けるために柳を植えたことからこの名で呼ばれるようになり、千利休も茶の湯に用いた名水として有名であったとあります。その後、織田信雄の屋敷は岡部内膳・加藤忠広(加藤清正の子)の京屋敷、貞亨年間以後は紀伊徳川家の京屋敷となり、現在は馬場染工場となっています。なお、「山城名勝志」によれば「柳の水」は上・下二ヶ所あったと記述されています。


  上柳水在三条南西洞院東側北隅、下柳水在五条坊門南西洞院下柳水町東側、今絶


と位置が示されています。 このうち上柳水は現在の柳水町(りゅうすいちょう)北側と釜座町(かまんざちょう)西側辺りに比定されます。下柳水はもっぱら酒造に用いられ、「山城名勝志」が刊行された時分には水が枯れていたことがわかります。

 ちなみにこの地は、平安時代末期には崇徳院の仙洞御所があったところで、「今鏡」に「新院(崇徳)永治元年十二月九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給う、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とあります。鎌倉時代には青柳寺(せいりゅうじ)という法華道場があり、室町時代には村田珠光が住んでいたとされています。

 なお、「柳の水」のごく近くに織田信長が没した本能寺がありました。信長は本能寺の変の前日の6月1日に安土から38点の名物を運ばせ、近衛前久(さきひさ)、観修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)、甘露寺経元(かんろじつねもと)などの公卿・僧侶ら40名を招いて茶会を開いています。この時に用いられたのは「柳の水」であったと思われます。そうでなくても同じ水脈の井戸の水が用いられたのに違いありません。

 現在の「柳の水」は、明治3年(1870)に新たに地下約100メートルに掘られて業務用の水を汲み上げられています。それ以来1度も枯れずに今もなお染色と飲料水として使用されています。井戸の周辺も綺麗に整備され石碑も建てられ、1リットル当たり20円の維持協力金でわけてもらえます。









三ノ間の水

 わが国最古の橋とされる宇治橋(うじばし)は、「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に「日本三古橋」一つに数えられています。その宇治橋の西詰から三つ目の柱間の上流側に設けられた張り出した部分を「三ノ間」といい、守護神「橋姫」を祀った名残といわれています。その三ノ間から汲まれた水を「三ノ間の水」といいます。ちなみに東詰の橋寺放生院にある「宇治橋断碑(だんぴ)」に大化2年(646)に奈良元興寺(がんこうじ)の道澄(どうちょう)、『続日本紀」には遣唐使の一員として入唐して玄奘三蔵に師事した道昭(どうしょう)が初めて架けたとあります。

 「三ノ間の水」の最古の記録は『松屋会記』の久政茶会記で、永禄8年(1565年)1月29日に松永秀久が多聞山城に千利休と松屋久政らを招いて催した茶会です。


  御水ハ宇治川三ノ間の名水也


と記されています。なお、この時の茶は台天目で「別儀」という極上の茶が使われ、当時天下一と称された九十九髪茄子(つくもがみなす)の茶入が用いられています。

 慶長元年(1596)には豊臣秀吉が宇治橋の橋守(はしもり)・守護職の通円に命じて五更の刻(日の出までのおよそ2時間あまりの間)に宇治橋三ノ間より汲み上げた「三ノ間の水」を伏見城に運ばせたとされています。そして秀吉は伏見城で大名や茶人をしばしば招いて「三ノ間の水」を用いて茶会を催したと伝えられています。その時に水を汲んだ釣瓶(つるべ)は秀吉が千利休に命じて特別に作らせましたもので、現在も橋のたもとの通園に伝えられています。また、10月に催される茶まつりの際には「名水汲上の儀」として「三ノ間の水」汲まれています。なお、宇治橋の三ノ間に祀られた橋姫神社は近世になって宇治橋西詰北上林味卜邸の横に移されました。その後、明治3年(1870)の洪水で流失して現在は宇治蓮華の地に祀られています。



















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