昭和14年(1939)1月12日、中国玉泉山の名水を用いて家元初釜が行われました。玉泉の名水は、北京郊外西北25清里、玉泉山静明園の井水で、乾隆帝が「天下第一泉」と定めた名水です。同13(1938)年の大晦日の夜に、大阪木津川飛行場へこの名水が詰められた一升瓶6本が届きました。中国からこれを送ったのが愈好斎の友人で逓信省より特殊任務を帯び、その部隊に所属する今井博でした。
玉泉と呼ばれる泉は、北京の頤和園の西に位置する玉泉山の南麓にあります。水が碧色をした綺麗な玉のようであることからこの名前が付きました。玉泉にある龍口はその遠望は龍が水を汲むようであり、近くで見ると白雪が飛び散るようにも見えるといわれ、「噴雪泉」ともいわれていました。古来、玉泉はその美しさから「燕京八景」の一つに数えられていました。 元々玉泉山には十数ヶ所の泉があり、総流水量も多くありました。しかし近代になって開発により泉からの水量が減り、以前の美しさがなくなりました。乾隆帝は茶好きな皇帝として有名で、特に龍井茶(緑茶)を好んだといわれています。乾隆帝は全国巡回をした際にそれぞれの名水の比重を比べました。そして玉泉の水が中国で一番比重が軽く、甘かったことから 「玉泉山天下第一泉記』」という石碑を自ら書き残しました。乾隆帝はこの玉泉のほかに水質の好いところを次のように示しています。ちなみに、第二塞上伊遜の水 、第三済南珍珠泉、 第四揚子江金山泉、 第五無錫恵山泉と杭州虎跑泉、 第六平山泉、 第七清凉山、白沙井、虎丘泉、西山碧雲寺泉です。 むかしは名水を用いた茶の湯は季節を問わず行われていましたが、現在、流儀では主に夏場のものとなっています。交通の便が悪い時代には、時期を問わず名水が手に入れば客を招いていて茶事をしたのです。まさにこの時の初釜は名水中の名水を用いた茶の湯だったのです。
八十行脚 随處喫茶去 用天下第一泉 水磨墨 物安(印) 八十行脚(あんぎゃ)随処(ずいしょ)に喫茶去(きっさこ) 天下第一泉の水を用いて墨を磨(す)る
武者小路千家12代愈好斎門人の近重物闇がこの時の玉泉の名水で磨った墨で書いた画讃です。近重物闇はは明治から昭和前期のが化学者です。名は真澄、物闇と号しました。京都帝国大学化学科卒業後、同大学院に学び、第五高等学校教授となり、わが国の理論無機化学、金相学の基礎を築きました。のちに古銅器や日本刀の金属学的研究も行っています。昭和2年(1927)には日本化学会会長に選ばれ、理論化学の発展に貢献ししています。
茶の湯は64歳の時、愈好斎に師事し、点前の修練に励み、12年間の間一日3度の稽古にを積み重ね、安井の自宅に二畳向切洞庫付きの「随時軒」を営んでいます。常日頃、
所謂道の秘伝、極意というものが、日の浅い究道者にとっては、案外詰まらないものだ
が、道に入ったものに取っては中々大切なコツであって、多年の苦心がこの一点の秘伝
によって、豁然として光明を覚える。その境地に到達せない限り、秘伝極意も何らの価
値もないものである
と主張していました。茶杓千本削りの念願を立て、一々茶杓にに番号をつけ、千本以上の茶杓を削りました。また禅を深く極め、漢詩、俳句など豊富な趣味で悠々自適な晩年を過ごしています。なお、生前の澄子夫人は子どものころの物闇のことを話す時、「モッタン、モッタン」といっていたのがとても印象に残っています。
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