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杉木普斎の相伝

万治元年(1658)、宗旦が没します。この時、普斎は31歳で、茶の湯の奥義である真台子の相伝(皆伝)を受けることなく、修行半ばで師を亡くし、のちに一翁について伝授されています。同じく四天王の一人、山田宗徧は浄土真宗の寺の息子に生まれ、十八歳の時に宗旦に入門し、のちに還俗して茶匠になっています。普斎は、御師という職に携わりながら茶の湯の修行をしたと考えられ、可能な時に伊勢から京都に上り、宗旦の膝下で指導を受けたと思われます。普斎は宗徧より一歳年下ですが、宗旦門下としては3年先輩にあたります。それでありながら宗徧は、承応元年(1652)に宗旦より真台子の伝授を受けています。二人の相伝の時期の差は、能力差があったことも考えられますが、宗旦について修行した時間が、普斎は宗徧に比べ短かったことによるのではないかと思われます。

「普公茶話」に、門人福井末言との問答録である「茶道或問」の真台子と盆点・台天目の伝授についての問答が記されています。少し長文ですが、普斎の答えは以下の通りです。

此三品の糊塗ハ、茶湯極眞の習ひにして、極めて秘傳也、先臺子相傳の一巻ハ、利休より宗旦へ傳り、宗旦より嫡子宗拙へつたハり、宗拙より次男宗守へ傳れり、宗左三男なりけれとも、宗旦の家督を繼れけり、然れとも臺子の一巻ハ家督にハ傳ハらすといへり、其習ひハ、いかて宗左のしらさるへき、吾、往年宗守、宗左の両 叟に傳授して、巻物、圖書、並ニ古書、圖畫等を所持しけるに、戌年の大火に灰燼となりぬ、授受せし時、漫りに他に漏さゝれといはれしかと  

と答えています。この三つは茶の湯の極真の習いで、この上のない秘伝であるとしています。また台子の相伝に伴う巻物は利休から宗旦に伝わり、宗旦から跡継ぎであった宗拙、宗拙から次男の一翁に伝わり、宗拙が宗旦より先に亡くなったことにより、江岑が家督を相続しましたが、宗旦の生前中には台子の巻物は伝わっていなかったとあります。そして、宗旦没後、普斎は一翁と江岑に師事したことがわかります。二人から、巻物や本も伝授されていたようです。江岑の真台子の相伝は、宗旦没後、一翁を経て行われたと考えられます。なお、普斎の筆になる台子の巻物にも「右、利休流臺子組合飾り、二本柱宗易之臺子也、小座敷にてハ自是外の仕様悪鋪也、利休より少庵、宗旦、宗守迠如此候」とあり、千家における台子の相伝の流れを知ることができます。ちなみにこの台子の巻物は、普斎が門人に与えたもので、一翁から伝授されたものの巻末に、普斎が由緒を書き加えたものです。このように一翁から伝授を受けたものを普斎が筆写して門人に与えたものが、写本ではありますが、「千宗守老江御相傳仕請之覚」や「千宗守より杉普斎へ」「宗守可覺書」「千家釣玄」「茶湯生花ノ事」が伝わっています。内容は先の台天目や盆点・真台子をはじめ点前に関することや、茶事の作法、道具の扱い、茶室、茶花、そして「織部百ケ条」に対する宗旦の見解など、茶道全般にわたる内容が記されています。

写真は『茶之湯書』の台子の相伝についての記述


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