立礼点前の歴史
鎌倉時代、建仁寺の開山栄西禅師により日本に新たな茶種と、南宋当(中国)で行われていた禅院茶礼が伝えられた。この禅院茶礼とは曲禄(きょくろく)とよばれる椅子に腰をかけ唐物の道具を用いて立礼で行う喫茶の形式のものであった。その。。後、変遷を経て、室町初期には、唐物道具で荘厳に座敷を飾る書院式の茶の湯が生まれた。禅院茶礼とは異なり座敷の畳の上で行われる、日本人の生活様式に即したものであり、座礼の形式は現在も茶の湯の根本となっている。
明治初期は茶の湯界にとって、未曾有の変革の時代で、武者小路千家をはじめ他の茶家の家元はそれぞれ大名家の茶頭として仕官して禄を与えられていたが、版籍奉還後はその禄を離れ、経済的に困難な状況となった。それに加え新政府が殖産興業や富国強兵などの政策とともに、近代化を推進し、西洋風が尊ばれる文明開化の風潮のなかで、旧時代の遺物と考えられた茶の湯も大打撃を受けた。
さらに東京遷都が行われ、天皇や公家・有力商人・市民が大挙して東京に移住すると、人口が35万人から22万人にまで激減し、京都の町は火の消えたように衰頽した。この状況を挽回させようと、明治5年(1872)、西本願寺・建仁寺・知恩院そして京都御所の一部で開催されたのが第1回京都博覧会で日本中の人々をはじめ、多くの外国人が訪れた。その余興として附博覧が設けられ、芸舞妓による手踊り(現在の都をどり)が催されたほか、建仁寺塔頭正伝院に茶席が設けられて三千家と藪内家が担当した。この時、野点席で裏千家玄々斎が考案した「点茶盤」による立礼点前が披露されたのである。これは真塗の天板に風炉釜を据えて茶を点てる形式のものであった。また同8年(1875)には表千家の堀内松翁が、中国南京からの来客に「タワフル(オランダ語でテーブルの意)夕顔蒔絵」を用いている。黒漆爪紅で、一閑張の天板の中央に丸炉を落としかけて、冬は炉、夏はその上に敷板をのせ風炉点前とした。立礼点前の考案は、西洋の生活様式を取り入れようとする当時の世相を反映したものと考えられる。なおこれらのほかに、表千家の即中斎に末広棚、裏千家の淡々斎に御園棚、藪内家の猗々斎の福寿棚等、各流儀で今日にいたるまで、それぞれ立礼卓が好まれている。
木津聿斎宗泉
武者小路千家では、大正初年に木津家3代聿斎宗泉がそれまでの立礼式をもとに、「卓子調點茶」と称して立礼点前を考案している。これは天板の上に鉄の丸炉を落とし込み、枠をはめて風炉、はずすと炉とそれぞれの風情で点前を行うことができるよう工夫をしたものである。のちに聿斎は、1尺4寸(46㎝)の炉を切り、炉縁を用い、また炉に蓋を施して風炉を使えるよう改良している。その後、昭和12年(1937)に貞明皇后関西行啓にあたり、京都大宮御所で好みの卓子を用いて点茶、炭点前の台覧に浴し、「京都大宮御所にて卓子点茶台覧御道具記」という印刷物を残している。またこれを記念して『卓子調點茶』を著わしている。同書にはこの時、新たに好んで芦田真阿に作らせた卓子の点前は、台子の点前の方式にわび草庵の風情を勘案し。隅炉の点前を応用したものとしている。
愈好斎
12代愈好斎は大阪の一閑張師吉田一閑に、全体を溜塗の一閑張で、天板の左半分に鉄の丸炉を落とし込む形式の「卓子式茶礼台」を造らせ好んでいる。椅子も併せて好み、脇卓はなく、茶碗や拝見物を載せるために、天板の客付に蝶番をつけた折り畳みの板がつけられ、また建水を載せる台も同様に蝶番を用いた折りたたみ式のものとなっている。これも丸炉に枠を入れることにより、炉と風炉を使い分けている。昭和9年(1934)、11代一指斎の三十七回忌に、門人福田平兵衛により、この卓子式茶礼台と好みの椅子・テーブル等が大徳寺の聚光院に奉納され、方丈西の間で立礼点前が披露されている。これは鎌倉時代の禅院茶礼の一端を偲ぶ画期的な試みであったと考えられる。また、当時、茶会といえば畳の上に正座というのが常識で、その畳の上に卓子式茶礼台と椅子・テーブルをすえて立礼式で茶会をするという発想はまことに斬新なものであった。今日、生活様式が大きく変わり若年者が正座をするという習慣がなくなって久しく、若年者が畳にすわることが困難になっている。そして若年者に限らず、老年者も足・膝の故障により正座の困難な人が大変多くなっている。今日、大寄せ茶会での椅子席をしばしば目にすることがある。当時、こうした状況を誰も予測することできなかったはずである。そうした意味ではまことに皮肉なことであるが愈好斎の先見の明を見ることができる。その後も利休の月命日である利休忌で、しばしばこの立礼卓が用いられ、この趣を満喫してもらっている。
また愈好斎は水無瀬神宮と湊川神社の献茶用の立礼卓を京都の指物師一瀬小兵衛に造らせ、台子点前をもとに新たな点前を考案している。いずれの流儀でも行われていなかった形式で、画期的なことであった。水無瀬神宮のものは、昭和12年(1937)、大阪の水無瀬神宮に奉納された愈好斎好みの献茶道具一式である。現在も毎年11月13日の土御門天皇祭の献茶で用いられている。立礼式による台子で、全体を松木地で、透き漆が施され、天板には鉄の丸炉を落とし込み、向う半分に檜の四本柱を立て、その上に同じく透き漆松の板をのせて真台子の趣としている。側面は正方形の松板を市松に組み、建水をのせる台が袋戸に仕舞い込める形式は流儀独特の形式である。なお脇机と腰掛けも好まれている。
湊川神社のものは、昭和13年(1938)神戸の湊川神社に奉納された献茶道具一式である。水無瀬神宮同様の立礼形式で、檜の木地で天板に鉄の丸炉を落とし込まれ、二本の鰭板のついた柱を立て、及台子の趣としたものである。側面は有職で用いられる柳筥をもとにした意匠で、細長く三角に削った白木を寄せ並べ、下半分に当てられている。脇机と腰掛けも好まれている。惜しくも昭和20年(1945)、神戸大空襲で焼失している。
この二つの献茶道具は、水無瀬神宮の拝殿が石の床で、参列者はその上に正座をして観覧する。また、湊川神社は本殿と拝殿の間の野外の空間の玉砂利の上であり、いずれも少しでも点前の位置を高くして参列者によく見えるようにするため、この形式が考案されたと考えられる。
京都大火 元治元年(1864) 瓦版
第9回東京大学コレクション展シリーズ「ニュースの誕生」展より
京都大火 元治元年(1864) 瓦版
第9回東京大学コレクション展シリーズ「ニュースの誕生」展より
東京遷都
第1回京都博覧会 美術工芸展会場
芸舞妓による手踊り
都をどり 呈茶席
玄々斎好 点茶盤
堀内松翁好 タワフル
表千家即中斎好 末広棚
裏千家淡々斎好 御園棚
藪内家猗々斎好 福寿棚
利休四百年忌記念 表千家而妙斎・裏千家鵬雲斎・武者小路千家不徹斎好
昭和12年(1937)に貞明皇后関西行啓にあたり、京都大宮御所で好みの卓子を用いて点茶、炭点前の台覧に浴した際の奉仕者
「京都大宮御所にて卓子点茶台覧御道具記」
木津聿斎宗泉著『卓子調點茶』
愈好斎好 卓子式茶礼台 吉田一閑造
昭和9年(1934)、武者小路千家11代一指斎の三十七回忌に、福田平兵衛により聚光院に奉納された、愈好斎好卓子式茶礼台
聚光院利休忌で使用されている愈好斎好み卓子式茶礼台
昭和12年(1937)、大阪の水無瀬神宮に奉納された愈好斎好献茶道具一式
不徹斎家元による献茶奉仕
土御門天皇祭で献茶奉仕する愈好斎。昭和12年(1937)11月13日に道具一式が奉納された。
昭和13年(1938)神戸の湊川神社に奉納された献茶道具一式。惜しくも同20年の神戸大空襲で焼失している。
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