武者小路千家の立礼卓 上

更新日:2019年10月5日

立礼点前の歴史

 鎌倉時代、建仁寺の開山栄西禅師により日本に新たな茶種と、南宋当(中国)で行われていた禅院茶礼が伝えられた。この禅院茶礼とは曲禄(きょくろく)とよばれる椅子に腰をかけ唐物の道具を用いて立礼で行う喫茶の形式のものであった。その。。後、変遷を経て、室町初期には、唐物道具で荘厳に座敷を飾る書院式の茶の湯が生まれた。禅院茶礼とは異なり座敷の畳の上で行われる、日本人の生活様式に即したものであり、座礼の形式は現在も茶の湯の根本となっている。

 明治初期は茶の湯界にとって、未曾有の変革の時代で、武者小路千家をはじめ他の茶家の家元はそれぞれ大名家の茶頭として仕官して禄を与えられていたが、版籍奉還後はその禄を離れ、経済的に困難な状況となった。それに加え新政府が殖産興業や富国強兵などの政策とともに、近代化を推進し、西洋風が尊ばれる文明開化の風潮のなかで、旧時代の遺物と考えられた茶の湯も大打撃を受けた。

 さらに東京遷都が行われ、天皇や公家・有力商人・市民が大挙して東京に移住すると、人口が35万人から22万人にまで激減し、京都の町は火の消えたように衰頽した。この状況を挽回させようと、明治5年(1872)、西本願寺・建仁寺・知恩院そして京都御所の一部で開催されたのが第1回京都博覧会で日本中の人々をはじめ、多くの外国人が訪れた。その余興として附博覧が設けられ、芸舞妓による手踊り(現在の都をどり)が催されたほか、建仁寺塔頭正伝院に茶席が設けられて三千家と藪内家が担当した。この時、野点席で裏千家玄々斎が考案した「点茶盤」による立礼点前が披露されたのである。これは真塗の天板に風炉釜を据えて茶を点てる形式のものであった。また同8年(