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執筆者の写真木津宗詮

相国寺と武者小路千家

 相国寺、ただしくは萬年山相国承天(じょうてん)禅寺といい、臨済宗相国寺派の大本山です。永徳2年(1382)、室町幕府3代将軍足利義満により室町幕府花の御所東側の地に創建された寺です。開山には春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が招請されましたが、春屋は師の夢窓疎石を勧請(かんじょう)し開山とし、自らは第2世住持となりました。山門・仏殿・法堂・庫院・僧堂・方丈・浴室・東司などの諸堂宇が整う寺観を呈し、応永6年(1399)には七重大塔が建立されました。寺格は五山の第2位で、13塔頭は足利家歴代の牌所となり、鹿苑(ろくおん)院には五山官寺の統括機関である鹿苑僧録(そうろく)が所在し五山の中枢となりました。数度にわたる焼失と再建がくり返され、天正12年(1584)西笑承兌が中興しました。そして天明8年(1788)、大火により法堂など数宇を除くすべてを焼失し、文化年間(1804〜17)になりようやく復興がなりました。明治初年の混乱期を経て、現在、相国寺派の寺院は鹿苑寺(金閣寺)・慈照(じしょう)寺(銀閣寺)をはじめ99を数え、塔頭は大光明(だいこうみょうみょう)寺・大通(だいつう)寺・光源(こうげん)院・林光(りんこう)院など12ヶ寺が現存しています。

 古来、千家の家元は大徳寺に参禅し、号を授与され、師弟の関係にあります。そして菩提寺は聚光院で、歴代の墓域も同院にあります。相国寺は大徳寺と同じ臨済宗に所属しますが、それほど深い関係にはありません。武者小路千家においては一翁宗守がいまだ吉岡甚右衛門と名乗っていた時分に、鹿苑寺(金閣寺)の住職で相国寺95世の鳳林承章(ほうりんしょうしょう)の日記『隔冥記(かくめいき)』にしばしばあらわれます。鳳林は父宗旦と親交があり、一翁はそのあとをうけて鳳林と好誼を深めます。鳳林は堂上地下をとはず幅広い人々と交流し、鳳林のもとで茶の湯や詩歌の会などが催され、一種の文化サロンが形成されていました。一翁もそうしたサロンの一員に加わり当時の文化人と交流を深めました。

 真伯の弟子の安田是誰(ぜすい)は売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)と親交があり、是誰が売茶翁から煎茶を学び、売茶翁に真伯から伝授された武者小路千家の茶の湯を教えたと伝えられています。今日、真伯の筒書になる売茶翁作の茶杓が残されていることからも察せられます。是誰と売茶翁の交流はまことに清淡で高雅なものであったと伝えられています。売茶翁は相国寺113世梅荘顯常(大典禅師)とも深い親交がありました。梅荘は江戸時代になり衰退した五山文学を挽回した一代の碩英で、当時の京都文化人人名録というべき『平安人物志』には「学者」「書家」の部門にとりあげられ高名な名僧でした。梅荘も鳳林同様、彼の周辺にも文化サロンというべきものが形成されていました。売茶翁をはじめ伊藤若冲(じゃくちゅう)、木村蒹葭堂(けんかどう)、宇野士新(ししん)、片山北海(ほっかい)等の文化人が梅荘のもとに出入りをしていました。是誰もそうした梅荘の文化サロンの一員であった考えられます。なお売茶翁は延享元年(1744)から宝暦4年(1754)の十月までの10年間ほど、林光院に住いしていました。このことは梅荘の尽力があったことと思われます。

 延享2年(1745)、直斎は21歳で家督を相続し襲名しています。直斎が襲名した年から30歳までのあいだ、売茶翁は林光院で暮らし売茶活動を行なっていました。当時、直斎の後見人のような立場で真伯の高弟であった是誰が助けていました。是誰が直斎を林光院に伴い、売茶翁にまみえていたことも十分にあったことだと思われます。そして売茶翁、または直接是誰を通じて梅荘に紹介されたのではないかと考えられます。そういう意味では直斎も梅荘の文化サロンの一員であった可能性があります。直斎と林光院のかかわりはそこからはじまると考えられます。安永6年(1786)9月、林光院の三甫は庫裏再建の願書を相国寺をはじめ金地院、奉行所に提出し、許可を得て着工にかかりました(『参暇寮日記』)。同8年(1788)、三甫は2年の歳月を経て庫裏の再建をはたしました。その建築資金は莫大なものでした。また松鷗庵では玉峯が公帖をおさめています。こちらもその儀式や手続きにかかる経費は大きなものでした。それぞれに大金を工面しなければならない状況にありました。そこで古来有名な鴬宿梅の古材で茶杓と茶入、香合を作り、それらの道具を頒布することで資金の一部捻出を図ったのではないかと考えられます。直斎はそれに積極的な協力をしました。通常筒書は目上の者が、箱書は目下の者が書くことが一般的です。二人の和尚は出家で、直斎からみれば目上にあたります。ところが三甫が筒裏に和歌を書き、玉峯が箱書をしているのも、直斎がそれぞれの資金作りに協力していることに対して謙虚な姿勢を示しているるのだと思われます。それとこの茶杓を直斎の社中に購入してもらうために、このような異例な書付がおこなわれたと考えてもよいでしょう。

 梅荘を中心にした文化サロンは、梅荘没後も消滅したわけではなく、相國寺の和尚とその周辺につながっていたのでしょう。時代はくだりますが、武者小路千家においては一指斎と慈照寺16世で当時荒廃した同寺を中興した祥洲元禎(じょうしゅうていげん)、慈照院14世の介川中厚(かいせんちゅうこう)、愈好斎の鹿苑寺十15世敬宗令恭・けいじゅうれいきょう(放光窟・ほうこうくつ)へと引き継がれています。


   相国寺法堂


   林光院

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