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細川ガラシャ終焉の地

 細川ガラシャ(珠 ・玉子)は16歳の時に織田信長の命令で細川忠興と結婚しました。数年後、父明智光秀が本能寺の変を起こしたことにより不遇な日々を送ります。

 ガラシャに仕えていた清原マリア(清原かよ)がクリスチャンであり、また、高山右近との出会いによりキリスト教と接触することになります。忠興に隠したまま教会ち出入りし、さらに洗礼を受けガラシャの名を受けたそうです。

 関ヶ原の戦いで石田三成が大坂玉造の細川の屋敷に乗り込み細川ガラシャを人質に取ろうとします。ガラシャは人質になるより自害するようにとの常日頃の忠興の言いつけを忠実に守ります。自殺はキリスト教で禁じられているため、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)と相談の上、三成の要求を拒絶して自害すると決定し、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯しました。秀清はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて秀清も自刃しだそうです。がらの辞世は、


 散りぬべき時知りてこそ世の中の 

 花も花なれ人も人なれ」


花は自ら散る時を知っているからこそ美しい。私もそのようにありたいという思いを詠んだ歌です。歌の心そのもののまことに壮絶な最期でした。




















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平安時代より名水として知られた佐女牛井は源氏の六条堀川邸にあったとされています。村田珠光がこのあたりに住み足利義政に佐女牛井の水を用いて献茶しました。その後も武野紹鴎や利休・織田有楽斎などの茶人に好まれ、天下一の名水と有名になりました。 戦時中、堀川通の強制疎開の際に撤去され、今は佐女牛井之跡の石標が立っています。

岡本浩一先生の力作です。是非ともご高覧くだい! https://kanjibunka.com/shinkan/shinkan-shoukai/shinkan-11325/

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