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売茶翁1

 売茶翁の生涯は、売茶翁との交遊や伊藤若冲を支援したことで知られる、相国寺一一三世梅荘顕常(ばいそうけんじょう・大典:1719~一1801)の「売茶翁傳」(『売茶翁偈語』の巻頭に所載)や、京都の人で文筆家、歌人として名を馳せた伴蒿蹊(ばんこうけい1733~1806)の『近世畸人伝』(1790年初版刊行)などに紹介されています。



それらによれば、売茶翁は蓮池藩・鍋島家に仕える医師であった父柴山杢之進常名(もくのしんつねな)と母みやの三男として延宝3年(1675)、肥前蓮池道畹(佐賀市)に生まれました。幼名を菊泉といいます。八歳の時に父が亡くなり、11歳で同郷の龍津寺(りゅうしんじ)に入って黄檗宗の隠元隆琦い(んげんりゅうき・1592〜1673)の弟子独湛性瑩(どくたんしょうけい・1628〜1706)の法を嗣いだ化霖道龍(けりんどうりゅう・1634〜1720)について出家し、月海元昭(げっかいげんしょう)と号しました。13歳の時、化霖に従って宇治の萬福寺を訪れ、その才能が秀逸であるということで独湛から偈を与えられています。22歳の時、激しい下痢を伴う病気を患い、その苦痛を克服できなかった自身の不明を恥じ、修行の至らなさを痛感したことを機に、奮然として行脚の旅に立ち、江戸から奥州仙台と各地の臨済・曹洞両宗の碩徳に歴参し、また近江の安養寺では湛堂慧淑(たんどうえしゅく)に真言律(仏教の戒律のこと)を学びました。九州に帰ってからも、筑紫の雷山(いかずちやま)の頂上では麦焦(むぎこ)がし・はったい粉と水だけで一夏90日を過ごす苦行に励み、厳しい自己との闘いの修行を積みますが、33歳で龍津寺に戻ります。この頃、長崎を旅し、清人より茶の知識を吸収したようです。その後、師の化霖が示寂するまで随侍し、法弟の大潮元皓が龍津寺の住職になるまで14年にわたり寺務をみました。そして享保15年(1730)頃に上洛、京に住むようになります。『近世畸人伝』には、


釋氏の世に處(よ)る、命の正邪は心なり、跡に

 あらず。夫(それ)袈裟の徳にほこりて人の信施

 をわづらはすは、われ自善(みずからよく)する

 者の志にあらず


とあり、自身の出家としての資質の限界を知り、その資格がないのに布施を受けて安閑と空しく過ごすことを自ら許すことができない、という思いから寺を飛び出したことがうかがわれます。

 同20年(1735)61歳の頃、そのまま京の東山に茶店を開き、「通仙亭(つうせんてい)」と名付け、蝸牛のような小さな粗末な家という意味で「蝸盧(かろ)」という額を掛けて茶を売り、そのわずかな収入で生活をする日々を送ります。店頭に、


  茶銭は黄金百鎰(ひゃくいつ)より半文銭まで

  はくれ次第、たゞのみも勝手、たゞよりはまけ

  まうさず


と掲げ、銭筒には、


  此中些子、吾が飢を支ふるに堪えたり、茶に報

  ゆるの客、一銭辞する莫れ


と書き、茶代は銭筒に客が入れるに任せるという姿勢で茶を売りました。『売茶翁偈語』には「松下點茶過客新一銭」云々をはじめ、この売茶の生活に入ってからの売茶翁の心境と様子を詠った詩が収められています。茶具を担い、東福寺通天橋の傍らをはじめ、蓮華王院(三十三間堂)前の松の下、方広寺大仏殿の前、鴨川の河原などの各所で、簡素な茶店を開きました。この売茶は利益を得るのが目的ではなく、まさに食べるためであり、それだけで満足であったようで、一日食べる分の金を得たらさっさと店を閉じ、家路を急ぎました。そのために全く収入がなく、時として餓死寸前の窮状に陥ったことが詩に詠まれています。


     題銭筒     

  随処開茶店 一鍾是一銭  

  生涯唯箇裏  飢飽任天然   


     銭筒に題す

  随処(ずいしょ)に茶店を開く

一鍾(いっしょう)是れ一銭

  生涯唯(た)だ箇裏(こり)

  飢飽(きほう)天然に任(まか)す


一杯一文で、一生が「箇裏」即ち銭筒の中身次第、飢えも満腹も自然に任せる在りようでした。(訳は末木文美士・堀川貴司注『江戸漢詩選 僧門』などを参照)。

 当時、抹茶以外の茶として、茶葉を天日で乾燥させて作る「日干番茶(ひぼしばんちゃ)」や、抹茶を挽く前の段階の碾茶(てんちゃ)を作る時に省かれる堅い葉や茎の「折(おり)」、隠元が明から伝えたとされる「釜炒茶(かまいりちゃ)」などがありました。釜炒茶は茶葉を釜で炒って酸化発酵を止め、茶の出をよくするために揉んで葉緑素を破壊する製法です(のちに釜で蒸す製法が主流となる)。売茶翁の用いた茶具は、今日の煎茶道具同様に小振りなもので、それに少量の茶を入れて客に売ったようで、番茶のように土瓶で煮出す茶ではなく、折や釜炒茶であったと考えるのが妥当です。なお、売茶翁は「試越渓新茶(越渓・えっけいの新茶を試む)」という長詩を詠んでいます。近江の越渓で栽培された新茶を贈られたことを喜び、称賛した内容です。越渓茶は、室町時代に永源寺の越渓秀格(えっけいしゅうかく)が、愛知川(えちがわ)の支流御池川(おいけがわ)沿いの政所(v)の集落に茶の栽培を奨励してできた茶で、売茶翁の時分は、越渓茶(現在は政所茶)と呼ばれ、緑茶ではなく黒茶という湯掻茶(ゆかきちゃ)・青揉水浸法による茶でした。売茶翁は大層気に入り、宝暦2年(1752)、師の化霖の三十三回忌の時に妹よしに送って、霊前に供えさせています。売茶にはこの越渓茶も用いたのでしょう。また寛保2年(1742)、売茶翁は宇治田原の湯屋谷(ゆやだに)の永谷宗圓(ながたにそうえん)を訪ね、初めて「青製煎茶(緑茶)」を飲み、終日茶について語り合い、「永谷翁に示す」の一文を作っています。文中に「初て試るに美麗清香の極品にして何ぞ天下に比するものならんや」と最大級の称賛をするほど気に入ったようです。永谷宗圓は新芽だけを蒸し、焙炉で手揉みしながら乾燥させ、青(緑)色の茶を作る(それまでの茶は黒っぽい色)「青製煎茶法」を開発し、普及させたとされています。売茶翁はこの最新の青製煎茶の「青」から連想される「清」のイメージ(このイメージはのちの煎茶趣味に多大な影響を与えたようです)を格別に評価し、この青製煎茶も売茶に用いたと思われます。売茶翁は特定の茶葉ではなく、自分自身が納得した茶葉を選択し、提供していたのでしょう。ただし、売茶翁が売茶に用いたと考えられるこれらの茶は、決して安価なものばかりではなかったようです。鶴氅衣(かくしょうえ)という道服を着た白髪の老人が、擔子(たんし)という棒に下げた提籃(ていらん)に見慣れない諸道具を入れて担い、梅荘顕常と桂洲道倫(けいしゅうどうりん・天龍寺221世。是誰の参禅の師)の筆になる茶旗を掲げ、柿渋油紙で作った敷物座褥(ざじょく)に座って、涼炉(りょうろ)や寄興罐(きこうかん・湯沸し)で美味な茶を煮、しかも代金は「半文銭まではくれ次第、たゞのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」。この異様な姿は、当時の衆目を引いたことでしょう。売茶翁の真骨頂は、茶を売りつつも禅の真意を平易に語ることで、他の禅僧たちとは異なる独自の家風だったのです。なお、売茶翁が本格的な煎茶道具で茶を煮たので、のちに「煎茶中興の祖」ともてはやされることになります。



方向寺大仏殿跡


東福寺通天橋



越溪茶(政所茶)



茶宗明神



永谷宗円

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