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初代松斎宗詮18 大綱宗彦

更新日:2019年10月5日

 大綱宗彦(だいこうそうげん)は、法諱を宗彦、道号を大綱、空華室くうげしつ・昨夢・向春庵と号している。安永元年(一七七1772)に京都に生まれ、定かではないが母は光格天皇の乳母であったと伝えられている。6歳の時に黄梅院の大徳寺409世融谷宗通(ゆうこくそうつう)に師事し、師の跡を継ぎ黄梅院14世となり、文政3年(1820)49歳の時に勅を奉じて開堂し大徳寺430世となっている。大綱は大徳寺の内外の有力者と交流が多く、黄梅院が毛利家の菩提寺であった関係から毛利家、また有栖川宮をはじめ公家とも深い関わりがあり、勤皇の志も強かった。そして安政7年(1860)に89歳で示寂(じじゃく)している。その残された日記『空花室日記』77巻は、文化13年(1816)45歳の3月朔日から、示寂する2日前の2月14日に至る44年間にわたる日記である。

 大綱は茶の湯や詩歌・書画にすぐれ、特に和歌をよくした。和歌は武者小路公隆(むしゃのこうじきみたか)に学び、千種有功(ちぐさありこと)や高松公祐(たかまつきんさち)・清水谷公正(しみずたにみみまさ)・賀茂季鷹(かもすえたか)らと親交し、特に晩年の歌風が狂歌体となっている。生涯に2万余首の詠歌と3千数百の詩偈を作ったとされている。また茶の湯は佐々木三味によると一啜斎に師事したとの伝えもあるといい、茶の湯も熱心に嗜んでいた。

大綱と松斎

 松斎の参禅の師が大綱である。『空華室日記』には松斎の記述が各所にあり、60代の松斎の足取りを知ることができる。

 松斎との関わりは、大綱の『空華日記』によると、天保6年(1831)1月25日に、好々斎が没し後継者として表千家の吸江斎きゅうこうさいの弟である以心斎いしんさいを養子にもらうことを黄梅院を訪れて相談したことが初出である。この件に関し、両者の行き来が盛んに同日記には記されている。

 天保8年(1837)2月22日の項には、「赴千宗守、問大坂木津宗詮安否未至」とあり、同月19日の朝、大塩平八郎が乱を起きている。その情報は直ちに京都の大綱の耳にも達し、大綱は松斎の安否を尋ねるために武者小路千家を訪ねている。この時、同じく表千家を訪ねて住山楊甫が無事であることを確認している。この乱による大火で、天満を中心とした大坂市中五分の一が焼失(大塩焼け)したが、梶木町の木津家は類焼を免れ、二27日に松斎は小倉餡一曲を持って大綱のもとを訪ねて無事を報告している。

 同じく3月29日には、大綱が松斎に斎号を贈っている。当初、大綱は「涼しさを我が物にしてこの宿に絶えず聴くらん松風の音」という自身の詠歌から「聴松斎」という斎号を与えた。ところが、翌朔日に「木津宗詮来有願」とあり、松斎の希望で「松斎」と改めたようである。なお、大綱は松斎にこの歌を漆書きした竹の一重切花入を贈っている。

 天保9年(1838)4月22日に、「訪木津宗詮息宗立(隆)喫茶」と得浅斎が黄梅院を訪れて茶を飲んでいる。これが『空華室日記』の得浅斎の初出である。この時、大綱から売茶翁の著した『栂尾茶譜略(梅山種茶譜略)』を得浅斎を通じて贈っている。『空華室日記』には、松斎の盆暮の挨拶はじめ大綱のもとに進物を持参し、詠草の染筆を依頼したり、また与えられたりのやり取りが多数記されている。

 利休二百五十年忌遠忌の際には、武者小路千家では眼の不自由な以心斎が11歳、表千家の吸江斎が22歳、裏千家の玄々斎げんげんさいが30歳であったために、玄々斎をのぞいて以心斎には松斎が、吸江斎には住山楊甫がそれぞれ後見として支えていた状況である。大綱は万事について相談役的な役割を担い、三千家に出入りして種々尽力している。また、武者小路千家とは、特に好々斎没後、以心斎の養子縁組や、失明した時の松斎の後見、此中斎の養子縁組にあたり種々尽力している。大綱は松斎と盛んに交流しているが、天保十15年(1844)5月2日に此中斎の養子縁組のことで大綱は松斎と絶交し、以後『空華室日記』に松斎の記述がなくなり、互いに交流が行われていない。


大綱宗彦


松斎宗詮


松斎が大綱からに斎号を与えられた際に院内の竹を用いて作られた竹一重切花入

「涼しさを我が物にしてこの宿に絶えず聴くらん松風の音」という自詠の歌が漆書きされている


黄梅院は、はじめ織田信長が父信秀の追善供養のために創建した黄梅庵がもととなり、のちに本能寺の変で急逝した信長の葬儀を羽柴秀吉(豊臣秀吉)が大徳寺で盛大に執り行い、その塔所として改築された。その後、小早川隆景の帰依を受け黄梅院と改められ今日にいたっている




書院前の直中庭’じきちゅうてい)は、千利休62歳の時に作られたと伝えられ、豊臣秀吉の希望による瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられた庭園


「昨夢軒」は武野紹鷗好みと伝えられる4畳半茶室である


大綱の日記『空花室日記』77巻は、文化13年(1816)45歳の3月朔日から、示寂する2日前の2月14日に至る44年間にわたる日記である

大綱宗彦墓


昨秋、大綱と松斎の深い縁から卜深庵歴代宗詮の位牌が黄梅院に納められ、毎年歴代宗詮と松斎が格別の高配を受けた松平不昧、卜深庵物故者中の追善法要と茶会が「昨夢会」として行われている

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