川島昭隠

川島昭隠は、慶応元年(1864)岐阜県に川島仁三郎の第三子として生まれる。名を捨次郎、諱は会聰、字は昭隠、室号は大徳寺聚光院在住の時分は槐安軒、正眼寺に住した後は霧隠軒を襲号している。11歳の時、心洞寺の卓洲宗珪について得度し、のち開善院の則門弁格に就く。漢学を加納藩の文学三宅樅台に師事し、妙心寺が岐阜霊松院に設けた聨芳学林に学ぶ。明治13年(1880)、美濃加茂伊深の正眼寺に掛搭して泰龍文彙に、のち大義祖勤に参じている。明治26年(1893)、清泰寺の住職となるが、未だ学心やまず、瑞龍寺の滴翠禅外や天竜寺の峨山昌禎、南宗寺の蜻洲宗拙に参じ、遂に蜻洲の印可を受ける。その後、妙心寺大応院に寓して聖胎長養し、出町柳の妙音堂に移り、数年にわたり相国寺の東嶽承晙に教えを請っている。明治40年(1907)8月、大徳寺の広州宗沢の後継者として聚光院の住職となり雲水の指導にあたる。当時、大徳寺の僧堂は聚光院で、禅堂が現在の総見院の本堂であった。なお有栖川宮威仁親王や前田利為としなりとその夫人等の格別の帰依を受け東京に赴いている。 

大正8年(1919)3月妙心寺で開堂を行い、4月に正眼寺に転住している。この時、雲衲50余人が師に従ったという。同13年(1924)1月、妙心寺派管長に選ばれるが任に就かず、2月になり病が篤くなり、24日「槐安国裏、六十余年、末後一句、罪犯弥天(槐安国裏かいあんこくり、六十余年、末後の一句、罪犯弥天ざいぼんみてん)と遺偈を認め筆を投じて60歳で示寂している。

昭隠は生まれつき剛毅でその志はたくましく優れたものであった。体格は小柄であったが眼光は常に鋭く、雲水時代には経典を血書して修行の成就することを祈るという真摯な修行僧であった。そして多くの土木普請に努め、聚光院在住の時は、その本堂や茶室等の修復をしている。そして大阪の山口玄洞の帰依により龍翔寺(現僧堂)の再建に着手するが、生前にその落慶を見ることはなかった。正眼寺の堂舎の修復や門前に石板を舗き、往来の便を図っている。示寂に臨んで侍者に自身の仕事は一箕を欠く、未完の三つの事業が残っている。あと数年の寿命があればそれを為すことができる。それが達成できれば何の怨みもないと言ったとのことである。後継者は昭隠の遺命により博多崇福寺の小南惟精が就任している。    

昭隠は、武者小路千家12代愈好斎の参禅の師であるとともに、木津家3代聿斎の参禅の師でもある。そして両者の斎号は昭隠から受けたものである。流儀にとっては格別縁の深い人である。



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平瀬露秀