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執筆者の写真木津宗詮

茶人是誰

安田是誰は、閑翁宗拙好みの雲龍風炉や宗旦所持与次郎作雲龍釜をはじめ多くの道具の極め、また真伯の伝書である『十六點伝授』の写本を極めたもの、伝書として「是誰聞書」や「艸人木」を残しています。また直斎に先駆けて自身の好みの名取川埋木香合などの好みものや、墨跡、自作の茶碗・花入・茶杓等の道具も今日伝わっています。それらのことからも相当茶の湯を嗜んだことが判り、武者小路千家の茶の湯を極めた社中であったと考えられます。

 是誰が安永4年(1775)10月12日に催した茶事の会記を、直斎の娘婿樋口道立が「茗茶録」に記録しています。


  安永四乙未十月十二日風炉余波午時

   安田是誰亭茶記 かこゐ一畳大目向切

    客 阮道立、馬嶋春成、野瀬方雅

  掛物 佐々木志津磨書、寂蓮秋夕之歌一首

  釜  あしや ふとん形

      風炉 宗全眉風呂

  香合 呉洲丸香合

  花入 竹 尺八 一翁作銘龍根

     花 菊

  水指 伊賀 ナマシメ

  茶入 瀬戸 耳付

          袋 唐鈍子

  茶碗 黒楽 自作 今鈍太郎ト書 直斎判アリ

  茶匕 空中作

    料理 角折敷 面桶椀

  菜モリ

  向  鱧 セントウニ  汁  菜

  ヱモノ 茄子

  取肴 塩引 朝鮮海苔

  くわし

  置くわし 松葉

  薄茶器 棗

   右老人七十四歳 花庭中之秋菊五種

            小菊、中菊を□□へ甚だ清雅


通常、旧暦10月から炉に改まりますが、「風炉余波」とあることから風炉の時期は終わったものの、その名残ということで敢て風炉の茶事であったことが判ります。是誰の自宅の囲いは一畳台目の極小の茶室で、客の阮道立は樋口道立のことです。連客の馬嶋春成と野瀬方雅については不明ですが、道立としばしば茶事に赴き、また互いに招きあうという極く親しい間柄でした。掛物の「寂蓮秋夕之歌」は、三夕の歌の一つとして有名な「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮(新古361)」ではないかと思われます。歌意は、なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだったという心境を詠んだ和歌で、まことに寂しくわびた趣の和歌です。また筆者佐々木志津磨(しづま)は、書博士で藤木流の創始者藤木敦直(あつなお)の門人で、志津磨流を新たに創始した京都の書家です。大徳寺の和尚や家元、茶人でない人の書を掛けているのはまことに異色です。花入が一翁作の竹尺八で、銘が「龍根」であることから、根竹の部分を用いた花入、水指の伊賀のナマシメ、いずれもわびた趣のわびたものであったと考えられます。茶碗の是誰自作になる黒楽は直斎により「今鈍太郎」と命銘され直斎の花押、漆書きが認められたものです。鈍太郎の本歌は『新版茶道大辞典』によると、「表千家六代覚々斎の手造り黒茶碗。大鉄鉢形。亀甲形の切篦が全体にわたり、高台は極めて小さい。口縁から裾に大火割れが通り、高台部分に漆繕いがある」茶碗で、是誰の手造の黒楽茶碗も本歌鈍太郎に趣の似通った作であったことから「今鈍太郎」と銘が付けられた思われます。察するにわびの趣の深い茶碗であったと思われます。なお、自身の茶事で自作の茶碗を用いているのは相当の見識の表れであり、また直斎が銘を付け花押を書いているのは、是誰に対して直斎が敬意を表するとともに、一目も二目も置いていたことが伺われます。懐石は旬の食材で特別なものを用いていません。焼物と吸物のない「一汁二菜取肴二種」で、直斎時代の一汁三菜に吸物と取肴二種、さらに肴一種加えた献立から比較するとわびた内容のものです。全体にわびた趣向の道具組の中で、清雅に秋菊五種が入れられていて、道立はこの対照的な風情、わびと雅が同居して何の違和感もなかったことに感じ入り特筆したのでしょう。最後に「右老人七十四歳」とわざわざ記しているのは、当時の74歳といえば相当な老人であり珍しい存在であるというばかりでなく、永年の茶の湯の修行・鍛錬を積んだ茶人の境涯がこのような極わびの茶事を催させたのだとの思いから、敢えて年齢を記録したのでしょう。なお、「茗茶録」には、他に天明2年(1782)の直斎の口切稽古茶事が記録されていて、是誰と道立、中村なる人物が招かれています。そこにも「是誰年齢八十二歳」と明記しています。わび茶を極めた是誰に対する、道立の尊敬の念が感じられます。

 なお、是誰70歳の時には、古稀の祝いの品と思われる「目出度かしく」の一行物の墨跡や、自作の輪無二重切花入「目出度かしく」が知られます。この花入は、節間の長い白竹で、花釘を掛ける穴を大きく円窓に開け、一般に見られる輪無二重切より窓を大きくとった、他に類を見ない独特のものです。他に手造の塩笥茶碗「塩竃」、公家の庭田重嗣(しげつぐ)が筒に歌銘「手にとるも世に幾しほの数ならむこ丶ろをこむる竹の一節」を記した茶杓が伝わっています。庭田重嗣(1757〜1831)は公家の庭田家13代にあたり、庭田家は近衞少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高は大納言まで進むことのできる羽林(うりん)家の家格になり、天正以前に設立した家門の家柄で、摂関家との主従関係では一条家の門流でした。江戸時代の石高が350石、神楽を家業とする公家で、当時は公家と庶民との階級には厳然たる区別があり、今日では想像できないものでした。禁裏御用鍛治師であろうと、公家の当主と親しく接することは通常あり得ないことで、況や自作の茶杓に歌銘を付けてもらうなどとは余程の関係であったと考えなければなりません。是誰と重嗣の間には、当時の厳しい階級差を越えた交流関係があり、案外、重嗣が是誰に茶の湯を師事していたのかもしれません。この茶杓は、是誰が重嗣に高く評価されていた証しでもあります。また、朝廷に献上された名取川の埋木を用いて造られた是誰の名取川香合も、そのような重嗣との関係から埋木を入手できたのではないでしょうか。

ちなみに、のちに9代好々斎室宗栄が一條家で献茶をするのも、遡って是誰が一條家の門流である庭田家と深い関係にあったことが、のちに影響を及ぼして献茶実現の一因となったと考えられます。

 延享2年(1745)3月28日、真伯が52歳で亡くなりました。後嗣の直斎は二21歳で、「松平家譜」によると6月21日(「登士録」は6月27日)に家督を相続し、直ちに宗守と改めています。この時、是誰は四44歳で、まさに茶人として爛熟期であり、真伯の有力な門人の一人でした。直斎は年齢的には何の問題もありませんが、他家から入家したということで、是誰が後見的な立場で支えたと考えられます。道具の極めが多いのも、高い鑑識眼が備わっていたことにもよりますが、後見とうぃて直斎に代わって勤めたことによるものだと思われます。また直斎もそのような是誰に敬意を表するが故に、前述のように、立場的には目下の是誰の茶碗に書付をしたのでしょう。直斎も年を経て立派な宗匠となり、是誰も直接直斎を支える必要がなくなり、安堵して本業の禁裏御用鍛冶の仕事や、自身の茶事を専らにしたと思われます。ところが直斎が、天明2年(1782)2月6日に28歳で亡くなりました。この時、次代の一啜斎は20歳、是誰81歳でした。まさに直斎が家督相続をした時と同じ状況を武者小路千家は迎え、この時の是誰は一啜斎や流儀を支えるべき状況に立ち、また流儀の有力な最長老の門人であったと思われます。「松平家譜」の一啜斎の項には、


  天明二年寅六月八日、宗守ト相改可申旨被仰渡、同日幼年之者に有候間、亡宗守門弟之

  者共ゟ、家業取立可申旨被仰付


とあり、高松藩が「亡宗守門弟之者共」に武者小路千家の家業を取り立てるように命じています。具体的な名前は記されていませんが、その代表が是誰であったのは間違いありません。このことにより是誰は再び一啜斎を支える後見の立場に戻ったと考えられます。これ以降、是誰は一啜斎に代わり、「十六點伝授」の極め(極めの日付が同年の11月27日となっています)や閑翁宗拙好雲龍風炉、宗旦所持与次郎作雲龍釜の箱書などを行っています。そのため、是誰の81歳以降の墨跡や茶杓などの道具、歴代の道具の極めが多く残されたのは、社中の需要に応えるため、一啜斎に代って行ったと考えられます。






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