• 木津宗詮

誕生祝い

 好々斎の未亡人宗栄が指物師市朗兵衛に写させた竹一重切花入、好々斎ふり鼓形写です。





 武者小路千家9代好々斎は、寛政7年(1795)に裏千家9代不見斎石翁宗室と後室竜(干峰宗映)との間に生まれています。好々斎には、父不見斎と最初の室浄嶽宗巌(安政元年歿)との間に長兄の認得斎と早生した十一郎、与三郎等、また同腹に石牛斎宗玄等の兄弟がいました。好々斎の幼名は不明ですが、高松藩の「登士録」に名乗りは徳方とあります。文政2年(1819)25歳の時に武者小路千家に入家し、天保6年(1835)に41歳で歿しています。

 裏千家ど好々斎は宗什と名乗っていました。父不見斎の十七回忌にあたり宗什を玄室と改名しています。この時、好々斎は23歳でした。玄室の号は裏千家では4代仙叟宗室が、初め医師の野間玄琢について医術の修行をしていた時、玄琢より与えられたものです。その後、好々斎の実父不見斎と11代玄々斎が宗室襲名前に、また玄々斎の息一如斎、又玅斎も名乗っています。好々斎は3代玄室にあたります。

 認得斎には数名の男子がいましたが、すべて早生していて、後継者に恵まれていませんでした。不見斎の十七回忌の時は認得斎が48歳で、当時としては老年の域に達していましたが、長女萬地が8歳、次女の照はそれより幼く、婿養子を迎えるには未だ幼すぎたため、萬地が成長したら婿を迎え、そして二人の間に生まれるであろう自身の直系に裏千家の道統を継承させるつもりであったと考えられます。一方で、宗什の次兄石牛斎が、認得斎を支える存在となっていたと考えられます。認得斎は、今後「千」の名字は各家一人だけとし、次三男は別名を立てるように定めた、表千家7代如心斎の遺言である「云置」に背くことを悩みつつも、家の繁栄を期待して石牛斎に真台子の相伝を授け、千宗玄と名乗らせて四条高倉に分家を立てています。将来不測の事態が起きた時のことを熟考して、石牛斎が後見または継承できるように備えていたのでしょう。宗什もまた23歳になり、認得斎について茶の湯の修行を積み、重要な戦力の一翼を担う力強い存在となっていたと思われます。父不見斎は宗什7歳の時に亡くなっており、兄認得斎から見れば、父親との縁の薄い弟でありました。不見斎も宗什の行く末を案じながら亡くなったであろうことから、不見斎の霊を安んじる思いで、立派に成長した宗什の改名を、不見斎十七回忌のこの時を選んで行ったのではないでしょうか。玄室号は、宗什の父不見斎が宗室襲名前に名乗った所縁の号であり、後嗣号にも用いられた裏千家の由緒ある大切な名跡です。この号を名乗らせたことから、認得斎はこの時期自身の後継者を宗什に定めていたと考えられます。

 文政2年2月12日、好々斎は縁あって8代一啜斎の末娘宗栄(智昌)の婿養子として武者小路千家に入家しています。なお、好々斎は入家前に玄室から宗屋に改名していました。

 文政6年(1823)2月13日、還暦を迎えた一啜斎は隠居して「休翁」と名を改め、好々斎は家督相続をし、「宗屋」から「宗守」に改名しています。この時、好々斎は29歳の働き盛りでした。25歳で一啜斎の娘宗栄(智昌)の婿として裏千家より入家し、後嗣として茶の湯の修行を十分に積んだ頃で、また一啜斎が後ろ楯として好々斎を支える体制も整い、その還暦を吉所に世代交代が図られたのでしょう。そしてその襲名茶事を11月から半宝庵で催しています。その茶事で実父である不見斎が好々斎の誕生を祝い、好々斎のために作った花入が使われています。銘が「振鼓」であったことがわかります。振鼓とは「でんでん太鼓」のことで、好々斎に対する不見斎の慈しみが感じられ、またこの花入を用いていることに、好々斎の不見斎に寄せる追募の念がうかがえます。

 このように振鼓は好々斎にとっては自身の誕生祝いに実父不見斎が作り、武者小路千家の入家にあたりこれを持参し、そして襲名披露の茶事に用いた格別由緒のある花入でした。宗栄にとっても振鼓は亡夫好々斎への切なる思いが込められた品であり、振鼓は好々斎そのものであったのでしょう。

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