八幡市の泰勝寺は書画、茶道、作庭など多方面に才能を発揮し、近衛信尹、本阿弥光悦と共に「寛永の三筆」と称され、小堀遠州や近衛信尋、沢庵和尚、淀屋个庵など当時の文化人と交友を持った石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗ゆかりの寺です。
「松花堂昭乗自画像写(部分)」松花堂美術館蔵
明治初年の神仏分離令により、石清水八幡宮のある男山山内の各寺院が廃寺になりました。松花堂昭乗ゆかりの滝本坊もその一つです。大正年間に八幡の円福寺僧堂の師家で妙心寺の管長であった神月徹宗の発願で「松花堂保存会」が結成されました。そして当時の政財界の重鎮の支援により、大正7年(1918)に熊本の細川家菩提寺の名である「泰勝寺」を譲り受けて建立されました。散逸していた松花堂昭乗と師匠の乗円、弟子の乗円の併せて祀り、元瀧本坊にあった茶室「閑雲軒」を木津家3代聿斎が設計して再建しました。
閑雲軒は、松花堂が瀧本坊を建てた時に、小堀遠州とともに造った茶室です。清水の舞台のように山腹の崖からせり出した「懸け造り」の構造でした。安永2年(1773)の火災で焼失してしまいました。木津家には瀧本坊の当時の平面図が伝えられていて、聿斎はそれをもとにして平地ではありますが泰勝寺の境内に再建しました。そして大正11年(1922)5月に竣工し、益田鈍翁が披露茶会を連会で催しています。
近年、八幡市教育委員会による発掘調査が行われ、瀧本坊全体の建物の配置とともに、閑雲軒がかつてあった場所が明らかになりました。男山中腹の崖の斜面には建物の柱を支えた礎石の列が30m以上見つかり、茶室は長さ7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中にせり出した「空中茶室」ともいうべき構造であったことが判明しました。空中を歩くような廊下を進み躙口に至り、眼下に臨む眺めを露地に見立ててるという、当時としては画期的な茶室であったようです。
以上、八幡市教育委員会
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