• 木津宗詮

直斎茶杓 鶯宿梅

 わび茶の開山村田珠光は大徳寺の一休宗純に参じ「茶禅一味」の境地を体得し、その弟子の武野紹鷗は同じく大徳寺の大林宗套(だいりんそうとう)に参禅しわび茶を深めました。そして千利休は笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に就いてわび茶を大成しまし、その後、千家の歴代は大徳寺の禅匠に参禅しています。武者小路千家は大徳寺と同じ臨済宗の相國(しょうこく)寺と深い関わりがありました。同寺の塔頭林光(りんこう)院に、古来有名な鴬宿梅という梅の木が守り伝えられています。この銘木で作られた茶杓『鴬宿梅(おうしゅくばい)』と武者小路千家と相國寺の関わりについて述べます。


    鶯宿梅 林光院

   

 直斎 鶯宿茶杓


 鴬宿梅    千宗守 花押(筒表)

 勅ナレハ最モ賢シ鴬ノ宿ハト

 問ハ如何カ答ン 花押(筒裏)

 以鴬宿梅香合残木造焉 二十箇之打

 松鴎庵玉峯誌 花押(箱内)

 鴬宿梅茶杓  直斎筒

 書付名判有 花押(箱甲)


 鶯宿梅の古材で戸澤左近の下削りになる茶杓です。櫂先は堂々とした丸みを帯びた幅広の力強い趣で、中程にかけてすらりと細くなり、切止近くでわずかに太くなった非常に端正な作振りです。筒は真削りで、筒表に「鴬宿梅 千宗守 花押」と直斎が記し、筒裏には林光院の住職三甫(さんぽ)が「勅ナレハ最いとモ賢かしこシ鴬ノ宿ハト問ハ如何カ答ン」と紀貫之の娘の和歌が書かれています。箱には相國寺塔頭松鴎(しょうおう)庵の玉峯(ぎょくほう)が鴬宿梅香合残木で作り、二十個の内の一つである由を記しています。なおこの茶杓は平瀬露香が所持していたものです。 




    鶯宿梅茶杓

    直斎筆 鶯宿梅

    林光院三甫筆 「勅ナレハ最いとモ賢かしこシ鴬ノ宿ハト問ハ如何カ答ン」

    松鴎庵の玉峯筆 「以鶯宿梅香合残木造焉 二十箇内」

    戸澤左近署名

    平瀬露香筆 「鶯宿梅茶匙」


鴬宿梅

 鴬宿梅は『大鏡』によると、村上天皇の御代、内裏の清涼殿の御前の梅の木が枯れたので、天皇が代わりの木を探させたところ、西京のある家に色濃く咲いたまことに立派な紅梅の樹がありました。それを掘ろうとしたところ、その家の主が「その木にこれを結び付けて持って行きなさい」と召し使いに命じて言わせたところ、何か訳があることだろうと思い、その結び文をつけたまま内裏に持ちかえりました。天皇がその文を御覧になったところ、女の筆跡で、「勅命ですからまことに恐れ多いことです。謹んでお受け申し上げます。ですが毎年春になるとやって来る鴬に、私の宿はどうなりましたかと尋ねられましたら、どのように答えたものでしょうか」という内容の和歌が書かれていますた。天皇は不思議に思われて、「誰の家であるか」と探らせたところ、紀貫之(きのつらゆき)の娘の住いでした。それを聞いて天皇は「まことに遺憾なことをしたことか」と恥ずかしく思われて、再び返されたとの故事のある梅の木です。

 『拾遺和歌集』には貫之の娘が和歌を詠み、奏上されたことにより、その樹を掘り取ることが中止されたとあります。『下学集げがくしゅう』には後鳥羽上皇の時、ある未亡人の庭に紅白の入り交じった花を咲かすまことにめずらしい梅の樹があり、毎年春になると鴬がやってきて宿りとしました。そのことが上皇の耳に達し、御所の庭に移そうとしたところ、「勅なれば云々」の和歌を詠んだところ、上皇がまことに感じられ移植するのを取りやめられたとあります。

 『鶯宿梅之記』には、貫之の娘の鶯宿梅を和泉式部(いずみしきぶ)が遺愛し、時代がくだり御水尾天皇の時代、勅命により内裏に移植することになりました。ところが鴬宿梅を永年にわたり守っていた媼が和歌を詠んで残念がったところ、許されて今まで通り媼にまもらせよと命じられました。媼の没後、5年の時が経ち市中の人々が内裏に献上したいと申し上げたところ、勅命により薩摩の太守(島津氏)が相國寺の松鴎庵の庭に植え、立派な木になり見事に花を咲かせたとあります。また『萬年山聯芳録(まんねんざんれんぽうろく)』には、西京の紀貫之の娘の家は後に寺となり林光院と号し、応仁の乱後相國寺山内に移し、鴬宿梅の種を方丈の庭に移し植えたとあります。これらの異なる伝承は鴬宿梅が古来あまりに著明であるが故、各種の逸話が生まれたことによるのでしょう。

 なお今日、林光院で守られている梅の木は「思いのまま・輪違(りんちがい)」とよばれる品種で、一本の樹から紅色・白色・絞りの八重咲きで、毎年一輪一輪変わって咲くことからこの名がつけられています。また「鴬宿梅」という品種もあります。そして「鴬宿梅」には果樹用と花梅の二種類があり、前者は淡紅色の一重で、後者は青白色で大輪咲きで花形も優雅です。










茶杓「鴬宿梅」

 林光院の鴬宿梅は宝暦頃(1751〜62)に枯死してしまいました。そこでその樹を根こそぎにして相國寺の宝庫に保管しました。安永9年(1780)、鴬宿梅の古材を方丈の大香合に挽かせて相國寺の什物にしまし、天明元年(1781)、直斎がその残木を拝領して作ったのがこの茶杓です。なお二十個はすべて茶杓ではなく、茶入6、香合7、茶杓7で計20個になります。7本の茶杓の内1本だけが漆がかけられています。


    鶯宿梅香合

    土佐光貞署名

    松鴎庵玉峯筆 「鶯宿梅大香合残木」

    戸澤左近署名 鶯宿梅古木以造宝珠香合」


 古来、鴬宿梅の茶杓は流儀において取り合わせがやかましくいわれています。直斎好宗哲作の「青漆梅棚」と保全作の「染付雲堂手水指」、直斎好で宗哲の作になる土佐光貞下絵「二本松茶桶」と、この茶杓を添えることが約束になっています。これは青漆塗が“竹”をあらわし、ケンドのつまみ金具が“裏梅”、茶杓が“梅”、茶器が“松”で「松竹梅」をあらわしたものです。


林光院と松鴎庵

 林光院は室町時代、応永年中(1394〜1424)に足利義嗣(よしつぐ)の菩提を弔うために夢窓疎石(むそうそせき)を開山として西京に創建されたました。その場所は紀貫之の屋敷のあった所と伝えられています。応仁の乱で灰燼に帰し、その後、二条の等持(とうじ)寺近辺に移りました。雲叔周悦うんしゅくそうえつが相國寺塔頭として再興しました。6世乾崖梵竺(けんがいぼんじく)が薩摩の島津家の特別の庇護を受けましたが、明治になり島津家の援助がなくなり、明治6年(1873)玄珹(げんじょう)の時、客殿が取り壊され廃寺を余儀なくされました。大正8年(1919)相國寺128世・3代管長橋本獨山(どくざん)が旧仁聖寺(にしょうじ)藩(滋賀県蒲生郡西大路村)の陣屋を移築、整備し改めて再興して今日に至っています。

 松鴎庵は永享年間(1429〜40)に綿谷周瓞(めんこくしゅうてつ)により開創されました。「松鴎」は綿谷の書斎の名前でした。綿谷は洛北の北岩倉に応仁の兵火を避け、高野に有隣(うりん)庵を開きました。のちに有隣庵は松鴎庵に接収され、相國寺山内に移転されました。9世住職玉峰の没後、建物は荒廃し、文政7年(1824)には取り壊され、再建されることなく、明治5年(1872)には庵号も廃絶してしまいした。

 茶杓の筒に貫之の娘の和歌を認めている三甫は、諱を玄省(げんしょう)、字三甫、初め恵才(けいさい)と号しました。亨保18年(1733)、河内国(大阪府)に生まれ、俗姓を久保田氏といいました。初め慈照院の天叔顕台(てんしゅくけんだい)に侍し、後に晴雲(せいうん)軒の無聞承聡(むもんきょうそう)に就いて得度しました。宝暦10年(1760)27歳の時、林光院八世住職になりました。寛政2年(1790)には鹿苑寺(金閣寺)の住職となり、同6年(1794)相國寺の住持としての任命書である「本寺公帖(ほんじこうじょう)」をおさめ(正式に相國寺の住持職には就任しませんが、仮の住職ということで住持としての手続きをし、その扱いをうける)、同12年(1800)に67歳で没しています。

 箱書をしている玉峰は、諱は初め祖闥(そたつ)、後に祖珪(そけい)、再び周珪(しゅうけい)と改めました。字は荊叟(けいそう)と号しました。亨保9年(1724)に生まれ、生国、俗姓ともに不明です。松鴎庵8世蘭谷等芳(らんこくとうほう)に嗣法し、延享3年(1746)22歳で松鴎庵9世となりました。「本寺公帖」をおさめ、天明3年(1783)に59歳で没しています。玉峰が亡くなったことにより松鴎庵の法系は絶えています。




    林光院 旧仁聖藩陣屋


相國寺と武者小路千家

 相國寺、ただしくは萬年山相國承天(じょうてん)禅寺といい、臨済宗相國寺派の大本山です。永徳2年(1382)、室町幕府3代将軍足利義満により室町幕府花の御所東側の地に創建された寺です。開山には春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が招請されましたが、春屋は師の夢窓疎石を勧請(かんじょう)し開山とし、自らは第2世住持となりました。山門・仏殿・法堂・庫院・僧堂・方丈・浴室・東司などの諸堂宇が整う寺観を呈し、応永6年(1399)には七重大塔が建立されました。寺格は五山の第2位で、13塔頭は足利家歴代の牌所となり、鹿苑(ろくおん)院には五山官寺の統括機関である鹿苑僧録(そうろく)が所在し五山の中枢となりました。数度にわたる焼失と再建がくり返され、天正12年(1584)西笑承兌(せいしょうしょうたい)が中興しました。そして天明8年(1788)、大火により法堂など数宇を除くすべてを焼失し、文化年間(1804〜18)になりようやく復興がなりました。明治初年の混乱期を経て、現在、相國寺派の寺院は鹿苑寺・慈照(じしょう)寺(銀閣寺)をはじめ99を数え、塔頭は大光明(だいきょうみょう)寺・大通(だいつう)寺・光源(こうげん)院・林光院など12ヶ寺が現存しています。








    相国寺


 さきに記したように、古来、千家の家元は大徳寺に参禅し、号を授与され、師弟の関係にあります。そして菩提寺は聚光院で、歴代の墓域も同院にあります。相國寺は大徳寺と同じ臨済宗に所属しますが、それほど深い関係にはありません。武者小路千家においては一翁宗守がいまだ吉岡甚右衛門と名乗っていた時分に、鹿苑寺の鳳林承章(ほうりんしょうしょう)(相國寺95世)の日記『隔冥(かくめい)記』にしばしばあらわれます。鳳林は父宗旦と親交があり、一翁はそのあとをうけて鳳林と好誼を深めます。鳳林は堂上地下をとはず幅広い人々と交流し、鳳林のもとで茶の湯や詩歌の会などが催され、一種の文化サロンが形成されていました。一翁もそうしたサロンの一員に加わり当時の文化人と交流を深めました。

 真伯の弟子の安田是誰(ぜすい)は売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)と親交があり、是誰が売茶翁から煎茶を学び、売茶翁に真伯から伝授された武者小路千家の茶の湯を教えたと伝えられています。今日、真伯の筒書になる売茶翁作の茶杓が残されていることからも察せられます。是誰と売茶翁の交流はまことに清淡で高雅なものであったと伝えられています。売茶翁は相國寺113世梅荘顯常(ばいそうけんじょう)・大典禅師とも深い親交がありました。梅荘は江戸時代になり衰退した五山文学を挽回した一代の碩英で、当時の京都文化人人名録というべき『平安人物志』には「学者」「書家」の部門にとりあげられ高名な名僧でした。梅荘も鳳林同様、彼の周辺にも文化サロンというべきものが形成されていました。売茶翁をはじめ伊藤若冲(じゃくちゅう)、木村蒹葭堂(けんかどう)、宇野士新(ししん)、片山北海(ほっかい)等の文化人が梅荘のもとに出入りをしていました。是誰もそういうことから梅荘の文化サロンの一員であった可能性がおおいにあります。なお売茶翁は延享元年(1744)から宝暦4年(1754)の10月までの10年間ほど、林光院に住いしていました。このことは梅荘の尽力があったことと思われます。


    安田是誰筆 生涯一碗茶


    売茶翁高遊外


 延享2年(一七四五)、直斎は二十一歳で家督を相続し襲名しています。直斎が襲名した年から三十歳までのあいだ、売茶翁は林光院で暮らし売茶活動を行なっていました。当時、直斎の後見人のような立場で真伯の高弟であった是誰が助けていました。是誰が直斎を林光院に伴い、売茶翁にまみえていたことも十分にあったことだと思われます。そして売茶翁、または直接是誰を通じて梅荘に紹介されたのではないかと考えられます。そういう意味では直斎も梅荘の文化サロンの一員であった可能性があります。直斎と林光院のかかわりはそこからはじまると考えられます。安永六年(一七八六)九月、林光院の三甫は庫裏再建の願書を相國寺をはじめ金地院、奉行所に提出し、許可を得て着工にかかりました(『参暇寮日記』)。同八年(1788)、三甫は2年の歳月を経て庫裏の再建をはたしました。その建築資金は莫大なものでした。また松鴎庵では玉峯が公帖をおさめています。こちらもその儀式や手続きにかかる経費は大きなものでした。それぞれに大金を工面しなければならない状況にありました。そこで古来有名な鴬宿梅の古材で茶杓と茶入、香合を作り、それらの道具を頒布することで資金の一部捻出を図ったのではないかと考えられます。直斎はそれに積極的な協力をしました。通常筒書は目上の者が、箱書は目下の者が書くことが一般的です。二人の和尚は出家で、直斎からみれば目上にあたります。ところが三甫が筒裏に和歌を書き、玉峯が箱書をしているのも、直斎がそれぞれの資金作りに協力していることに対して謙虚な姿勢を示しているるのだと思われます。それとこの茶杓を直斎の社中に購入してもらうために、このような異例な書付がおこなわれたと考えてもよいでしょう。

 梅荘を中心にした文化サロンは、梅荘没後も消滅したわけではなく、相國寺の和尚とその周辺につながっていたのでしょう。時代はくだりますが、武者小路千家においては一指斎と慈照寺16世で当時荒廃した同寺を中興した祥洲元禎(じょうしゅうげんてい)、慈照院14世の介川中厚(かいせんちゅうこう)、愈好斎の鹿苑寺15世敬宗令恭(けいじゅうれいきょう)・放光窟(ほうこう)へと引き継がれています。



    鹿苑寺(金閣寺)



    慈照寺(銀閣寺)

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