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因縁の地

伏見の地は豊臣秀吉が伏見城を築き城下町として反映しました。江戸時代は幕府直轄地となり、京都と大坂をつなぐ淀川水運の要地で、灘と並ぶ清酒の産地でした。伏見奉行が置かれ大名が赴任しました。なお、他の遠国奉行は旗本で伏見奉行は大名でした。それほど幕府が重要視した地でした。

そうした伏見奉行のひとりに小堀遠州がいます。遠州は元和9年(1624)12月に初代伏見奉行に任ぜられています。その後5代政峯、7代政方が伏見奉行となっています。

京都市伏見区の御香宮神社の門をくぐって直ぐ左手に「伏見義民の碑」が建っています。

題字は三条実美、碑文は勝海舟の撰、明治20年(1887)に建てられた石碑です。駒札には、天明5年(1785)、伏見奉行小堀政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の義民の顕彰する石碑とあります。

小堀政方は小堀遠州の子孫で、近江の浅井小室の藩主ど、田沼意次の取り立てで安永8年(1779)に伏見奉行となりました。伏見奉行であった政方は数々の悪政を行いました。政方の住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものでした。神職の話によると畳一枚にまで今で言う税金をかけて徴収するという想像を絶することまでしたそうです。

そうした悲惨な伏見の虐げられた住民の苦難を座視するのを忍びず、文殊九助以下7人は決死の覚悟で苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に越訴・直訴しました。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されました。九兵衛ら7人は獄中で相ついで病死してしまいました。なお、毎年5月18日には伏見義民碑保存会により九助ら7人の義民の慰霊祭が執行されています。

原田伴彦著『日本女性史の謎』によると、政方は大変な放蕩児で、大阪城番を勤めていたとき、天王寺の料理茶屋俵屋のお房という女にうつつをぬかし、ある夜、城に帰らず、勤めを怠る大失態をしてしまいました。あわてた家老たちは、小堀家第一の重宝の『遠州蔵帳』の筆頭にあげられ、小堀家秘蔵の名物茶入「在中庵」(藤田美術館蔵)を、大坂北浜の問屋米屋平兵衛に千両で質入れし、大坂城代方の諸役人に賄賂を贈り、ようやく事なきを得ました。

伏見奉行になったあと、京都所司代の久世出雲守弘明が、政方に、在中庵の茶入をぜひ拝見したいと所望しました。政方は、早速ご覧に入れると約束して帰りましたが、質からうけ出す千両の金の工面がつきません。家老の宮川庄太夫が金子の才覚に苦しんでいたとき、お芳の方が、「それくらいの金なら、伏見の金持の町人たちに調達させたらよかろう」と入れ知恵をしました。家老たちは「それはよいことに気がついた」と早速、二十数人の富商を呼んで、翌日千両を差し出させました。これが伏見の町民への御用金の始まりとなりました。

政方は、久世出雲守を茶湯に招き、めでたく面目を保ちえました。こののち政方のお芳への寵愛はますます深いものとなりました。小堀家改易の数年後、伏酔隠士により著された「雨中之鑵子(うちゅうのかんす)」という記録に、


お芳の方、生得物見遊芸をはなはだ好まる。そもそも早春の万歳、春駒、太神楽より、極月の節気候まで呼び入れて、一つとして見残されしものとてはなきなり。そのほかは深草藤の森の競馬をもお屋敷へ呼寄せて見物、また六斎念仏を呼寄せ、あるは仕組踊、町々へは花火を申し付け、放下のきりん、京之介が娘の類ひ残らず呼寄見物せらる。小屋掛造用人足を町中掛りに申し付け、また出歩きが大好ゆえ、春は梅見、桜見、けふは桃山、翌は梅谷桜狩と、毎日三味線音曲にて騒立、古御香山を留め山に申付、殿を進めての蕈(きのこ)狩り、よって八月より十月まで此山へ行くものなし。もし松蕈(まつたけ)一本にてもとるものは、或は町預け、また入牢などと脅かすゆへ、皆人大いに恐れけり。京都四条の大芝居の歌舞伎役者を呼び出して楽まる。この役者どもを呼び下すたびごとに、人足所へ申付、駕籠を何挺ともなく役者を送り迎へ、御庭に舞台桟敷を構え、小屋掛人足らの物入雑用、すこしも容赦なく相掛るを、町方よりいださせての芝居見物。


とあります。そして四条の芝居役者市川某を使って、もとの情人の坂東米五郎を大坂芝居に呼寄せ、月に幾度か芝居見物と称して大坂に出向いて米五郎と忍び会い、あげくには米五郎を京都の宮方の家来として市場吉兵衛と改名させて伏見に呼び、政方には自分の親類だといって仕官させ、毎日屋敷に伺候させました。米五郎を密夫と知らぬは政方だけでした。家臣たちはお芳の方の心に叶おうとへつらうものばかりで、誰一人口に出しませんでした。放蕩三昧という点では政方もお芳と同じでした。この放蕩の限りを尽くした出費はすべて伏見の町人に課され、過酷な徴税は12万余両にも上りました。こうして小堀家の内向は乱れて、内には奸臣(かんしん)がはびこり、外には民の怨嗟(えんさ)の声が日増しに高まりました。そして文殊九助以下7人が幕府に直訴することになったのです。

その後、幕府は政方の伏見奉行を解任し、政方は小田原の城主大久保加賀守の江戸藩邸に永預かりとなりました。時に47歳。謹慎の余生を送り享和3年9月8日、62歳で没しています。

お芳はその後どうなったかは詳らかではありません。

まさに時代劇のドラマか映画の世界です。江戸時代、徒党を組んで奉行所を飛ばして正規の手続きを踏まず江戸表に越訴・直訴することは重罪にあたり、その指導者は死罪などの極刑に処せられました。義民たちは極刑を覚悟の上の企てで、江戸に下る前に年寄役を辞め、家族とも死出の旅に出る際の儀式である水盃を交わしています。そして訴えが取り上げられ小堀家は改易になったのです。当然の結末であったといえます。家臣に不調法が理由で幕府に訴えられ、政方はその責任を負わされて、遠州以来の領地を没収せられて改易になったとの説がありますがそれはまったくの誤りです。幕府の定めでは正室は江戸を離れることができなかったことから、お芳は伏見で事実上の正室として自由奔放に振る舞ったのです。政方は愛妾お芳の色香に惑い乞われるまま生活が奢侈になり、国許の小室藩自体が相当な財政悪化状態であり、またお芳の入れ智恵もあって紊乱甚だしい状態であったことが改易の原因です。

政方が具体的に伏見の町民に行った苛斂誅求は、町民の収入源である石銭(舟の通行料)を取り上げ、撞木町の遊郭「笹屋」を謀略で入手し経営し、その他、様々な理由を付けては金を巻き上げ、最終的に11万両に達したそうです。

なお、お芳は江戸八丁堀の半井立仙(なからいりゅうせん)という医者の娘で、生まれつきの美貌の上に、和歌・連歌・俳諧・琴・茶湯・香道等を嗜む才女でした。そして物見遊山が好きで淫奔(いんぽん)な性格でした。とくに歌舞伎芝居には目がなく、坂東米五郎という役者に惚れこみ懇ろな仲にありました。両親には茅場町の薬師如来へ下女を連れて御千度参りをしたいと偽り、実は千度参りは下女にまかせて自分は薬師の近くの米五郎の家へ夜な夜な通うというありさまでした。そんなある日、政方が駕籠の中からお芳を見染め、たちまちにして政方はお芳の美しさに心を奪われてしまいました。政方は立仙にお芳を所望し側室にしました。お芳にとってはまさに玉の輿でした。政方にとっては「傾国の美女」で小堀家改易の主因となった女性です。

なお、小堀家は文政11年(1828)一族の政優(宗中)が幕臣として召しだされ、小堀本家の名跡を再興しています。

伏見の地は小堀家にとって格別皮肉な因縁の地です。


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