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初代松斎宗詮27 小山田主鈴

小山田おやまだ主鈴(しゅれい)は、天明元年に岩代国(福島県)に白河郷士の子として生まれ、26歳の時、柳生(やぎゅう)家八代俊則(としのり)に足軽として仕官した。才腕を認められて重職に栄進し、のち奈良に移り、大坂や南都の柳生藩蔵屋敷の勝手方奉行を勤め、天保6年(1835)には国家老となり、実質的には柳生藩のトップの地位に就いている。下克上の時代に生きた豊臣秀吉とは異なり、主鈴の時代は、身分も固定していて、足軽から家老にまで上り詰めることはまさに当時の「今太閤」であった。主鈴は生まれつき商才に恵まれ、頭の回転も速くそれまで築いた人脈をフルに利用して、堂島の米相場で巨万の富を得た。そしてその巨利を柳生藩に献金・用立てをして柳生藩の財政窮乏を救い、藩財政の建て直しに成功している。なお、柳生藩と紀州藩への用立てと、住吉屋嘉助への融通とをあわせるとなんと1万両以上の金額にも及んでいる。この紀州藩への用立てには松斎が関わったものと考えられる。主鈴は弘化3年(1846)に隠居し、その謝恩として千両を柳生家に献金している。嘉永元年(1848)。藩主柳生俊章としあきから賜った柳生の地に屋敷を上棟し、晩年はこの屋敷(旧柳生家老屋敷)で余生を送り、安政3年(1856)に76歳で亡くなっている。

 主鈴は南都屋敷で茶の湯に励み、天保10年(1839)年9月に乱飾と真台子の相伝を受けている。そして隠居後に柳生に建てた屋敷には松斎好みの茶室を建て、庭も松斎が作庭している。主鈴は晩年この屋敷で茶の湯を楽しんでいる。なお、惜しくも茶室はのちに壊されているが、庭は今日も松斎作として屋敷ともども公開されている。













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