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天下一与次郎

 辻与次郎は安土桃山時代から江戸時代初期(16世後半から17世紀初頭)の釜師・鋳物師です。生没年不詳で、近江国栗太郡辻村(現滋賀県栗東市辻)に生まれました。名は実久、法名を一旦、通称は天正頃は与二郎、慶長頃には与次郎と記しています。 当代随一の釜師として天下一の称号を名乗ることを豊臣秀吉から許されて「天下一与次郎」とも呼ばれています。  後に京都の三条釜座に住み、西村道冶の『釜師之由緒』は京釜の創始者西村道仁に師事したとあります。名越昌孝の『鋳家系』によれば、与次郎は名越善正の次男で、慶長8年(1603年)に48歳で没したと記されていますが、それ以降の作も現存していて『鋳家系』記載は誤りとされています。  与次郎は、千利休の釜師として、室町時代に盛行した芦屋釜・天命釜とは異なる利休の好みの丸釜・阿弥陀堂釜・尻張釜・雲竜釜・四方釜など、新しい形・文様・肌合の釜を創始しました。そして鋳上がった釜を再び火中に入れて高温で赤くなるまで焼いて釜肌をしめる「焼抜(やきぬき)」という仕上法を創始しました。また本来炉に掛けるための釜の羽を鋳造後、故意に打落して古作の釜のような古びた味わいをだす「羽落」などの技法を考案したとされています。なお、与次郎の在銘や共箱の釜は見出されていませんが、慶長5年(1600)京都豊国神社雲龍燈籠や慶長15年(1610)、出羽国西善寺鋳銅鐘など鋳出銘のある作が残されています。『茶家酔古襍』に「天正十四年京都大仏殿丈六の仏像を鋳る又豊国神前の燈籠を寄進す」とあり、豊臣秀吉が建立した方広寺の大仏を作りました。なお、『茶湯古事談』に「子孫今ハ相続せす」とあり、与次郎一代であったようです。  『釜師由来』には、 利休時代、藤左衛門、彌四郎と此三人利休の釜初て鋳る。阿弥陀堂、雲龍、四方釜 与二郎作。尻張釜 彌四郎作。丸釜 藤左衛門作。其後は右三人種々形の釜を鋳る。一旦与二郎三人の内随一の上手也。利休時代の釜出来能を与二郎と極め、藤左衛門、彌四郎両作共に今代は与二郎と極め、其外の釜は利休時代と極る とあります。 与次郎と藤左衛門、弥四郎の3人が利休の釜を作ったとしています。『西京釜師系図』には与次郎と藤左衛門と弥四郎は兄弟であるとしています。そして与次郎が阿弥陀堂と雲龍、四方釜、尻張が弥四郎、丸釜が藤左衛門の作になり、その後はそれぞれがいろんな釜を鋳込んだとあります。『茶家酔古襍』には利休好みの丸釜、阿弥陀堂、尻張、雲龍、万代屋、針屋、国師、百会霰、龍宝山、少庵好みの巴釜は与次郎作としています。その中でも与次郎が一番上手で、利休時代の釜の出来の良いもの、藤左衛門と弥四郎の作の釜も与次郎作、その他の釜は利休時代と極められました。『釜師由緒』と『茶道筌蹄』も同様に利休時代の良い出来の釜、藤左衛門と弥四郎の釜を与次郎作と極めているとあります。  与次郎作の記銘になるものとして、滋賀県野洲町の兵主大社の天正18年(1590)の銅鰐口が最古の作で「天正十八年庚寅九月吉日 大工洛陽三條與二郎」とあります。京都豊国神社の竹虎灯籠は、「天正十九う十一月住吉郷内坂村にてい申す與二郎」、同じく豊国神社の雲竜灯籠は「奉寄進鉄灯籠 慶長五庚子年八月十八日 天下一釜大工與次郎實久鋳之」とあり、秀吉死後、慶長5年(1600)にその恩に報いるために与次郎が寄進したものと伝えられています。出羽西善寺の梵鐘には、「山城愛宕郡三條釜座鋳物師天下一辻與次郎藤原實久」と記され慶長15年(1610)のものです。初期に「與二郎」、晩年に「與次郎」と記銘しています。

 去る4月、8年の歳月をかけて解体修理を終えた知恩院御影堂の向かいの茶所「泰平亭」の大茶釜は、あまり知る人がいないようですが辻与次郎の作になります。


















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