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得浅斎の辞世

当家の二代得浅斎の晩年は不遇な人生を歩みました。


播州高砂の善竜立寺に生まれ、初代松斎の養嗣子となり、松斎を支え、勤皇に勤しみ、その働きも十分認められず明治を迎えました。 そして明治4年(1871)4月、50歳の時に嫡男の宗税を亡くして絶望の淵に突き落とされ、初代松斎以来の伏見町の家を手放し、河内の若江に移住して農業で身を立てました。そのことを孫の花笑斎は特に「隠居」と書き留めています。それに引き続き最愛の娘で表千家の住山江甫に嫁いだ蓮が翌年の5月に没しました。これらのことが得浅斎の晩年の人生を決定づけました。そうした中でも、得浅斎は若江で細々と茶の湯を続け、そして残された3代聿斎に真台子を相伝し、自分に課せられた責務を果たしたのです。 明治27年(1894)、若江を引払い大阪の大国町に転居し、糸屋を商い、翌28年9月20日、七十年の波乱に富んだ人生を閉じています。樹深院宗雲居士。 死に臨んだ得浅斎の心境は、自分んの役目を果たし、晴れ晴れとした心境であったと考えられます。その心境を詠んだ辞世の歌がこの軸です。


先考の辞世記憶のまゝ われの世は  勝手ながらに    望みなし 地獄極楽   神のまにまにまに




この本紙は息子である聿斎が菓子を載せる懐紙に認めたものです。聿斎の記憶に残る得浅斎の辞世を後日覚えとして記したものです。

かつて卜深庵二百年を記念して『木津宗詮 武者小路千家とともに』を執筆した折りの調査で偶然発見さ表装した軸です。得浅斎は歴代で最も記録の残されていない人です。息子聿斎の手控えが最後の得浅斎の境地を伝えてくれる貴重な資料となりました。

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