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是誰と売茶翁

 武者小路千家6代真伯の門人安田是誰は売茶翁と親交がありました。是誰の82歳の筆になる「昨日少年今白頭」という一行があります。この句の出典は、晩唐の詩人許渾(きょこん)の「秋思」という詩の一節です。以下にその全文を記します。  琪樹西風枕簟秋     楚雲湘水憶同遊     高歌一曲掩明鏡     昨日少年今白頭     琪樹(きじじゅ)の西風枕簟(ちんてん)の秋  楚雲(そうん)湘水(しょうすい)同遊を憶う  昨日(さくじつ)の少年 今は白頭(はくとう)  高歌(こうか)一曲(いっきょく)明鏡(めいき

 ょう)を掩(おお)う 玉のように美しい樹木に西からの風が吹き、枕や竹で編んだ筵(夏物の寝具)にもひんやりと秋の気配が感じられるようになった。かつて友と遊んだ楚の国の雲や湘江(しょうこう)の流れを懐かしく想う。声高らかに一曲歌おうとしたが、鏡の中の年老いた自分の姿を見て、すぐに鏡を覆った。あの頃の若者は、今は白髪頭の老人となってしまった、という意味です。是誰は81歳の時、直斎亡き後の一啜斎と流儀を支える後見的な立場となり、有力な最長老の門人として尽力するなど、最晩年まで気骨のあった人でした。この一行を認めた一年後、83歳の折の一行書「生涯一碗茶」も全く衰えを感じさせない作品です。とはいえ、やはり八十路を越して、日々の衰えを自覚していたはずで、冒頭の書は、そうした是誰の心境を反映しているのでしょう。  この一行書には、是誰が売茶翁に依頼して認めてもらった軸が添えられています。  松下點茶過客新一銭     賣與一甌春諸君莫笑      生涯乏貧不苦人々苦貧   右松下開茶店拙作應    是誰茶隠求   甲戌元旦   八十翁高居士遊外  松下に茶を点じて過客(かきゃく)新たなり  一銭売与(ばいよ)す 一甌(おう)の春  諸君笑うことなかれ 生涯乏しきを  貧は人を苦しめず 人は貧を苦しむ   右、松下茶店を開くの拙作   是誰茶隠の求めに應ず 松林で茶を点じていると、次から次へと新しい客がやって来る。一杯一文で春の茶を売る。皆さん、私が生涯貧乏だと笑わないで下さい。貧乏が人を苦しめるのではなく、人が勝手に貧乏に苦しんでいるのです。売茶翁から見れば、世間の人はあれが欲しい、これが欲しい。一つ手に入ると、また次のものが欲しい。限りなく欲望が生まれ、まるで欲望の奴隷のようなもの。このような一生を過ごす人はまさに生涯貧乏人で、どんなに貧しかろうが、足ることを知れば富楽安穏の境涯だ、との思いが詠み込まれています。「是誰茶隠」と認めていることから、売茶翁は是誰を鍛冶師としてではなく、茶の隠者、即ちわび茶人として位置付けていたのでしょう。  この詩は、売茶翁の詩文集『売茶翁偈語』(売茶翁の亡くなった年に、売茶翁の法弟大潮元皓(だいちょうげんこう)の法嗣(はっす)である梅山と金龍道人敬雄が、その遺された詩文を集成して刊行したもの)に見られます。「舎那殿前ノ松下ニ開二茶店ヲ一・舎那殿(しゃなでん)前の松下(しょうか)に茶店を開く」と題し、大坂冬の陣の端緒となった「國家安康」の鐘銘で有名な方広寺の大仏殿の前にある松の下で、茶店を開いた時の作です。売茶翁80歳、宝暦4年(1754)の元旦に書かれています。冒頭の是誰が一行を書いた年よりも以前のことで、売茶翁の軸はのちに添えられたようです。なお、誰のためのものかは不明ですが、同8年(1758)、売茶翁84歳の時に認められた同様の内容の墨跡も伝えられています。  写真は是誰81歳の時の一行「生涯一碗茶」です。本紙中央に一字一句もゆるがせにしない文字を、気魄を込めて力強く書き、「八十三子 是誰」と堂々と署名し、花押も大層大きく認めています。是誰83歳、亡くなる前年の茶の湯の境地を表現した墨跡です。



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