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松斎聞書の公開 『松斎聞書 文化十一戌正月九日』1

新型コロナ蔓延により茶湯は云うに及ばず伝統文化の継承は危機的な状況になりました。この先どのような時代が到来するのか予測もつかない状況です。

松平不昧公の勧めで初代宗詮が武者小路千家8代家元一啜斎に入門して武者小路千家の茶家として200年あまりの歳月が経ちました。一啜斎からの聞書や問答録、また松斎が記した記録が歴代当主により一子相伝されてきました。これらは今日まで門外不出のものでしたが、今後の継承も危ぶまれる昨今、このまま埋もれてしまうことを危ぶみ、父露真の了解を得て今回これらの資料に解説を加えてこのたび公開をすることにしました。現在の流儀の作法と異なる点もあります。また今日伝わることのないものなど貴重な記録が残されています。一人でも多くの方にご覧いただき、また活用していただければ幸甚に存じます。


『松斎聞書 文化十一戌正月九日』1


一竹檠の楊枝、本勝手四畳半にて、外などにて(図1)かくの如く左の方へ元を置き候へども、この事にては(図2)右の方へ元を置き申し候なり。

○但し、また(図3)かくの如く舌へ突き込み置く候ても能く候なり。

図1

図2


図3





 竹檠の楊枝は、本勝手四畳半では、左が元になるように置くのであるが、それ以外の茶席では右の方が元になるように置くのである。但し、また図のように楊枝を舌に突き込んで置いてもよいのである。


解説

竹檠

 竹檠は、竹で出来た灯台で、四隅を切った杉板の上に二節の竹筒を立てたもので、竹筒の上部に凹形に切込み、そこに舌と呼ばれる竹片を斜めに嵌め込んでいる。竹筒の上部に下土器したかわらけをのせ、その上に雀土器すずめかわらけを置き、そこに油を張り、短灯心を油に浸し、掻立かきたてという金具で押さえ、口から少し出して火を灯す。灯心の数は闇夜は三本、月夜には五本用いられ、初座では雀土器の蓋をし、後座は外す。灯芯の燃え殻が舌に落ち、竹筒の中に納まるようになっている。炎の調整を六寸の黒文字が用いられ、舌の中に差し込まれている。四畳半以下の茶室で用いられる。一啜斎の頃には、本勝手四畳半では下の上に黒文字の先が右、元が左に横一文字に置かれ、それ以外の茶席では左右を逆にして置かれた。また、現行のように下の中に差し込んで置く事も良いとされていた。なお、手付きと手のない竹檠があり、代表的なものに利休形と仙叟好みがある。


竹檠以外の灯火

 竹檠以外に茶席で用いる灯台に、短檠がある。『貞丈雑記』に「短檠と云は、燈台の短きを云也、長きをば長檠と云、総名をば燈檠と云、燈台の事也」とある。黒塗りの背の低い灯台である利休好みは、四畳半以上の広間で用いられ、上すぼみの台箱の背面に、板柱がき、その上から少し下がったところに丸穴があり、穴の下に火皿受の金輪が付いたも灯台である。板柱の金輪の上に下土器を置き、その上に油の入れられた雀土器に、柱の穴から後ろに垂らして一つに結ばれた長灯心が用いられる。下の台箱の上に四つ折りにした杉原紙を敷き、その上に下皿が置かれ、そこに掻き立て用の黒文字を一本置き、台箱の中へ油注が入れられる。 竹檠同様、初座では雀瓦の蓋を閉めて、後座では雀瓦の蓋を開けて下皿にのせる。

 他にも利休形で台は松、柱は杉、柱の上の蜘手に桐が用いられ、その上に雀土器を置かれる木灯台、宗全好みで台座が菊の花の形をした楽焼、柱が檜で桐の蜘蛛手の菊灯台、同じく柱が槻の原叟好みの菊灯台。皮付きの三本の丸棒を紙縒りで結び、上下を開いて立て、上に油皿を置いて火をともす如心斎好みの結灯台、利休好みの竹で節を残して縦に切り、節の上に火皿をのせて用いる竹の掛灯台、竹の角を二箇所切り取ってものは席中で用い、そのまま角を残したものは勝手用である。同じく利休好みで長方形の後板に木の蜘手を付けた水屋用の掛灯台などがある。懐石で用いられる膳燭や暁の茶事に用いられる一啜斎好みの座敷行灯等がある。

 灯芯の数について、好々斎が門人の問いに答えた内容を記している『千宗守流点本』には、「灯真(芯)ハ席中ハ何モ七筋、水屋ハ五筋、待合モ五筋、庭灯篭三筋、月夜ナレバ月ニ明ヲムハレシ候故五筋」とあり。当時は灯芯の数が細かく定められていたことが窺わ

れる。席中はより明るく、水屋や待合は少しあかりを落とし、庭はより落としていた。



一待合にて、上客は亭主へ近き方に居るべく事。

但し、待合雪隠は、上客方にありても苦しからず候事なり。


腰掛待合では、上客は亭主に近い方に座るべきこと。

但し、腰掛待合の雪隠は、上客の方にあっても差し支えない。


解説

腰掛待合と雪隠

 現在の武者小路千家の環翠園東南方の壁際の外腰掛待合は末客よりに雪隠が隣り合わせに建てられている。隅に釣棚が設けられ、上座を畳敷、下座を呉板張りに二つ割りにした長さ2、7メートルの幅の広い腰掛待合である。官休庵の内露地に対しては遠い方の畳敷に上客が座るようになっている。もとは半宝庵の南方塀際にあったのを、昭和十五年(一九四〇)に弘道庵が再建されたときに現在の位置に移され、本来の位置が逆転したのである。

雪隠が上客寄りにあっても差し支えないというのは、上客の間近に雪隠があると、臭いが上客に直撃するのでで違和感を持つが、用を足す時にすぐ近くにあることが都合が良いということと考えられる。作例として、裏千家の無色軒南東の腰掛待合は上客の座の横に雪隠が設けられている。





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