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2代得浅斎宗詮12 跡見花蹊の茶の湯

 跡見花蹊が得浅斎にいつ入門したのかは不明であるが、『跡見花蹊日記』の文久元年(1861)6月1日の項に、


 此八ツ時より木津さま御茶之湯に参り


とあるのが初出である。花蹊二21歳の時である。その後、8月14日には、


 新三郎さまと同道にて木津へ参り、竹の四

 方棚稽古見て帰り候。軸月下門宗守 岸岱

 花白萩。


とあり、この日は、直斎好みの竹柱四方棚の稽古を見て帰っている。なお、床の掛物は好々斎が着賛した岸岱(がんたい)の「月下門」の図であった。月下門とは唐の詩人賈島(かとう)が驢馬に乗って詩を作っているうちに、「僧は推(お)す月下の門」という句を思いついた。その句の「推す」という語とは別に「敲(たたく)」という語を思いつき、どちらが良いか手でその動作をしながら悩んでいた。そこに知京兆府事(長安の都知事)韓愈(かんゆ)の行列の中に突っ込んでしまった。すぐに賈島は捕えられて韓愈の前に引き出され、つぶさにその経緯を申し立てた。名だたる名文家であった韓愈は「それは「敲く」にした方がよかろう」と言い、二人はそこから意気投合して、馬を並べて詩について語り合ったという故事を描いた図であったと思われる。ちなみにこれが故事成語「推敲(すいこう)」のもとの話しである。なお、岸岱は江戸時代後期の絵師で、岸派の2代目で、禁裏の安政度造営の際に障壁画の制作に参加している。茶の湯は好々斎・以心斎の門下として武者小路の千家の茶の湯を相当学んだようで、嘉永4年(1851)12月に以心斎から乱飾の許状を受けている。

『跡見花蹊日記』には、「竹の四方棚稽古」とか小袋棚一手前(点前)稽古する」、「袋棚にて濃茶稽古する」、「又炭手前する」「皆々一手前して、夜花月する」など稽古に関する記述が多数見ることができる。なお、時には「茶の稽古する、夜三更迄」と午後の十一時まで稽古したり、また朝から終日稽古をしたりすることもあったようである。「茶の稽古新席て致し、又馳走に成、一更に帰り」と、稽古のあと食事を振る舞われることもあったようである。なお、木津家の資料には残されていないが、得浅斎の代になり、新たな茶席が建てられたことが此記述からわかる。『跡見花蹊日記』には、文久元年(1861)から文久3年まで、21歳から23歳までの3年間に、花蹊が得浅斎のもとでの茶の湯の稽古の記録をみることができる。

 ちなみに、文久元年8月13日の記述に、


 三之助、元之助、木津さまの長巻(長緒)

 之稽古に参られ候


とある。三之助は上の弟跡見重威(しげたけ)、元之助は下の弟跡見愛四郎のことで、花蹊の二人の弟たちも同じく得浅斎のもとで武者小路千家の茶の湯を学んでいたことがわかる。

文久元年10月14日には、


 竹の四方棚にて茶の稽古、又炭手前、此日

 宗匠留守中にて、堀さまにをしへてもらい候


とあり、得浅斎の代稽古を堀宗三が勤めていることがわかる。堀宗三は安政2年(1855)に、小習六ヶ条と唐物点の許状を受けている。

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