木津宗詮4 時間前1 分4月1日 稽古場の床3代聿斎宗泉の雛画讃です。花は加茂本阿弥椿と金梅花を竹一重切花入に入れました。 夫婦(めおと)別礼儀正しき雛(ひいな)かな 聿斎(花押) 決して差別ではなく、それぞれに区別があるということです。 お雛さんというと3月3日ですが、どうも今の暦では実感がわきません。実際、桃の花...
木津宗詮4 時間前1 分形見の桜14年前に亡くなった実父の手植えの桜です、私が住まいする吉田に越してきた時に和歌山から持ってきて植えてくれた山桜です。 例年、花をあまりつけずに寂しく思っていたところ、社中で造園業の川崎さんが根を切っていじめてくれたおかげで、今年はとてもたくさんの花を咲かせました。今年はと...
木津宗詮2 日前1 分松平不昧公もとは浄土宗江戸四ヶ寺のひとつ、芝の天徳寺にあった松平不昧公の墓です。関東大震災の被害に会った際、松江の月照寺に移されることになっていましたが、高橋箒庵が護国寺に移転しました。 初代松斎宗詮は大坂木津の願泉寺に生まれ住職として勤めます。四天王寺で雅楽を嗜み、寺を弟に譲り江戸...
木津宗詮2 日前1 分柳緑花紅先々家元愈好斎の一行「柳緑花紅」です。 出典は中国北宋の蘇東坡が詠んだ漢詩の一節と伝えられています。 柳緑花紅真面目 柳はみずみずしい緑の枝を垂らし、花は美しい紅い花を咲かせています。これが本来のありのままの姿であるという意味です。柳も花も決して意図的にみずみずしい緑や、美...
木津宗詮4 日前1 分春風有隣斎一行「春水来る」です。 白楽天(白居易)の「府西池」が出典で、 柳無気力条先動 池有波文氷尽開 今日不知誰計会 春風春水一時来 柳に気力なくして条(えだ)先(ま)づ動(うご)き 池に波文(はもん)ありて氷尽(ことごと)く開く 今日知らず誰か計会(けいくわい)せん...
木津宗詮4 日前1 分利休忌家元の利休忌を終えて帰宅し、自宅の稽古場の床に松平不昧公の賛になる狩野栄川院の画像を掛けてお祀りしました。家元でいただいた利休饅頭を利休好みの千ノ字盆写しにのせて茶湯を供えました。 不昧公の賛は公の参禅の師である大巓和尚の利休居士像の賛語の写しを認めています。...
木津宗詮5 日前1 分利休忌稽古場の床に松平不昧公の賛になる狩野栄川院の利休居士の画像を掛けてお祀りしました。不昧公の賛は大巓和尚の利休居士像の賛語の写しを認めています。 頭上之巾 手中之扇 制喫茶道 引紛奢人 頭上巾(きん) 手中の扇(せん) 喫茶の道を制し 奢人(しゃじん)を引紛(いんぷん)す...
木津宗詮3月26日2 分春雨江戸中期の公家烏丸卜山(光胤・みつたね)の懐紙「春雨」です。「卜山」は光胤が入道したのちの号です。 日を経れば咲きそうもげに春雨の 恵みを木々の花の父母(かぞいろ) 春雨とは、春に降るやさしい雨のことをいいます。ようやく寒い冬が終わり、万物に春の陽気が満ち、人の心も朗らかに...
木津宗詮3月25日1 分手向けの花本日3月16日は旧暦2月25日で、菅原道真公の御命日です。 北野天満宮では道真公を宥(なだめる)と音の通じるということで菜種の花を供え「菜種御供(なたねのごく)」として催されていたのを、明治以降、新暦2月25日に菜種のかわりに梅の花を用いて「梅花御供(ばいかのごく)」が行わ...
木津宗詮3月22日1 分墨汁入李朝の墨汁入です。かつてある中国人から譲ってもらい香合として使っています。 北朝鮮の人が豆満江を密かに渡り、中国の吉林省で米と交換したとのことです。どれほどの米になったのか、その人が無事に北朝鮮に帰れたのかはわかりません。米を持ち帰れたなら飢えを凌いで命をつなぐことができた...
木津宗詮3月21日1 分釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心『新纂浄土宗大辞典』に、 太陽の没するのを観想すること。日観・日輪観ともいう。①衆生をして境(きょう)識りて心を住せしめんと欲す。②衆生をして自の業障に軽重あることを識らしめんと欲す。③衆生をして弥陀の依正二報の種種の荘厳...
木津宗詮3月18日1 分3月18日 稽古場の床幕末の上賀茂神社社家賀茂季鷹の朧月画讃です。信楽焼の耳付花入に紅妙蓮寺椿とれんぎようレンギョウ(連翹)を入れました。 八十三翁 季鷹 さほ姫の 霞の袖に つゝみても にほひこほるゝ 春夜月 和歌では春の月は朧に霞む月を詠むことが約束となっています。佐保姫は春を司る女神のこと...
木津宗詮3月18日1 分サンシユユ(山茱萸)春の日差しを受けて、天を突くように黄色い花を付けたサンシユユ(山茱萸)が、真っ直ぐに伸びています。早春に葉がつく前に樹一面に黄色の花をつけることから別名ハルコガネバナ(春黄金花)といいます。秋にはグミに似た真っ赤な実を付けます。マンサクやレンギヨウとともに早春に咲く花木の代...
木津宗詮3月17日2 分私の席昭和15年(1940)4月21日に三千家が施主となり利休居士三百五十年遠忌法要が大徳寺法堂で営まれました。そして法要では表千家即中斎、裏千家淡々斎、武者小路千家愈好斎により献茶が、また、法要の実況放送も行われました。法要の導師は当時大徳寺管長であった大梅窟でした。...
木津宗詮3月16日1 分3月15日 稽古場の床本日は稽古立礼の稽古です。床は大徳寺大心義統の柿本人丸画讃を掛けました。紅妙蓮寺と白玉の2本の椿と日向水木を粉引の花入に入れました。 正一位柿本大明神 我画ニテマキレコレナキ 正一位見トムナケレト 是レモ人丸 花押(印)...
木津宗詮3月14日1 分8代目千家出入りの炭屋泉春石津商店です?。200年前に公家の勧めで炭屋に家業を改めて現在に至っています。当代で8代目だそうです。元々は烏丸今出川辺りにいたそうですが、幕末の騒乱を避けて西洞院竹屋町の地に移転したそうです。公家をはじめ三井家の出入りで、現在は茶の湯の炭を専門に扱って...
木津宗詮3月14日1 分銭茶・青苔茶昭和15年に刊行された、諸岡存・家入一雄著『朝鮮の茶と禅』によると、かつて朝鮮・韓国で「銭茶・青苔茶」という団茶が全羅南道で作られていたとあります。 5月ころに柔らかい茶葉を摘み、蒸器で葉を蒸します。その葉を釜に入れて両手で箸を一本ずつ持ってかき混ぜながら炙ります。葉が完全...