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千秋万歳(せんずまんざい)

千秋万歳とは正月に宮中・寺社等で千年万年、つまり「永遠」に栄え、長寿を賀ぐ祝言を述べて歌舞を披露する大道芸・門付芸のひとつです。写真は江戸中期の狩野派の絵師狩野探雪の千秋万歳図」です。

かつては奈良県北葛城郡地方の広瀬(ひろせ)・窪田(くぼた)・箸尾(はしお)などの村落の人たちが、京阪地方の家々を訪ねて祝言を述べて太夫が鼓、才蔵が滑稽な舞をして門付していました。平安時代中期の貴族で儒学者であった藤原明衡(あきひら)が著した『新猿楽記』に、「千秋万歳之酒禱(せんずまんざいのさかほがい)」とあるのが最古の記録だそうです。鎌倉時代の藤原定家の日記「明月記」には「千秋万歳参内す」とあり、古くから宮中の年中行事のひとつであたことがわかります。特に広瀬は宮中への参仕を許されていて、大正中ごろまで行われていたそうです。一条家の諸太夫下橋敬長の『幕末の宮廷』によると、1月5日、天皇以下女官が参内殿に出御の上ご覧になったと記されています。千秋万歳は参内殿の前で、


一本の柱が伊勢天照大神、二本の柱が二の宮権現、三本の柱が山王権現、四本の柱が四の宮権現


と神さんの名を一本の柱から十本までいい、最後に「おめでとう」と鼓を打って舞い、その場で天皇から太刀一腰が下賜されました。そののち勘使(かんづかい)で代金をもらい、続いて宮家や五摂家・公家の屋敷を同様に回ったそうです。ちなみにこの太刀は「献上太刀」といい、木刀に紙を貼った代用品でした。

残念ながら大和の千秋万歳は現在は絶えています。記録によると、その装束は太夫は扇、才蔵は鼓を持ち、服装はともに侍烏帽子(さむらいえぼし)に素襖(すおう)を着用していました。大正の宮中参仕の記録では烏帽子、浄衣(じょうえ)・浅葱(あさぎ)の指貫袴(さしぬきばかま)・浅沓(あさぐつ)であったとあります。このときは2組4人で、御所の庭で「柱立(はしらだて)」「田植舞」「えびす舞」などを演じていたそうです。ちなみに、尾張万歳や三河万歳はこの大和万歳が源で、その後全国各地に広まりったとのことです。

この千秋万歳が大正中期に大阪等でこれを舞台で演じたことから娯楽・大衆芸能としての道を歩みはじめました。当初は鼓・三味線・唄に軽口で構成される音曲漫才が主流でした。ところが2人の掛け合いの話芸の色合いが濃くなり、昭和になって現在の漫才の形にほぼ定着したそうです。そして全国規模で誰でも理解できる大衆芸能としたのが漫才の祖「エンタツ・アチャコ」です。

彼らはその後の漫才に多大な影響を与えています。ちなみに「漫才」の語は吉本興業宣伝部により名付けられたものだそうです。

千秋万歳の型を色濃く残していた漫才師に砂川捨丸がいます。紋付袴姿で鼓を持って愛嬌ととぼけたいでたちで高座をつとめていました。私も幼い頃のかすかな記憶ですが、「え~、漫才の骨董品でございましてぇ」のセリフは今も覚えています。まさに捨丸は「千秋万歳」の趣を残した最後の生き残りで、まさに骨董品そのものだったのです。YouTubeで在りし日偲ぶことができます。


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