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執筆者の写真木津宗詮

大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)

子淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)を生みたまひき。次に伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生みたまひき。この島は身一つにして面(おも)四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の国を愛比賣(えひめ)といひ、讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟の国を、大宜都比賣(おおげつひめ)といひ、土左の国を建依別(たけよりわけ)といふ。次に隠伎之三子島(おきのみつごのしま)を生みたまひき。またの名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島(つくしのしま)を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。筑紫の国を白日別(しらびわけ)といひ、豊国(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)といひ、肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曾国(くまそのくに)を建日別(たけびわけ)といふ。次に伊伎島(いきのしま)を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。次に津鳥(つしま)を生みたまひき、またの名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)といふ。次に佐度島(さどのしま)を生みたまひき。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を生みたまひき。またの名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)といふ。かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島国(おおやしま)といふ。


『古事記』の国生み、国土創生の一節です。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、天上の橋である天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした地上を掻き混ぜ、矛から落ちる滴りが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)を作りました。そして二神は島に降り、天御柱(あめのみはしら)を立て、八尋殿(やひろどの、広大な殿舎)を建てました。そして水蛭子(ひるこ)、淡島(あわしま)が生まれました。なおこの二人は子供のうちに数えられていません。そして淡路島を出発点に、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州と大八島を構成する島々を生み出していきました。「大山と秋津島」本州の美称で、転じて、日本国の総称でもあります。

なお、「秋津」とは蜻蛉(とんぼ)のことで、『日本書紀』によると神武天皇が腋上嗛間丘(わきがみのほほまのおか・御所市国見山または本馬山)から国見したときに「あきつの臀呫(となめ)の如し」と感嘆したことから「秋津島」と命名されたとあります。「あきつの臀呫」とは蜻蛉が交尾するときに尾を回した形のことです。


春日同詠幸逢泰平代        倭歌      関白信尹 あひにあひぬ秋津 嶋根の外まてもけ におさまれる君かよ のはる



関白近衛信尹(のぶただ)の懐紙「幸逢泰平代(さいわいにたいへいのよにあう)」です。 この和歌は慶長5年(1600)1月16日に後陽成天皇主催になる和歌御会始の時に信尹が詠進した歌です。そうしたことから端作りに春の日とあります。「和歌御会始(わかごかいはじめ)」とは、今日、毎年1月15日に宮中で催されている「歌会始の儀」のことです。 逢いたいと願って逢うことのできない泰平の御代、それも日本だけでなく海外までも治る素晴らしい御代に幸いにして出会った喜びの気持ちが詠まれています。 過日、5月にご即位なされた天皇陛下が、神武天皇以来、126代の御位にお就きになられたことを内外に宣明なさる儀式、すなわち即位礼正殿の儀が宮中松の間で挙行されました。各皇族方はじめ内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、200近い国の元首・祝賀使節が参列します。 令和になり、まことに残念なことに過日は未曾有の災害に見舞われました。また、海外では戦闘の絶えない地域もあります。まことに恐懼に耐えないことですが、令和という御代を天皇陛下と私たち国民がこぞって泰平の御代にしていかなければならないと私は思っています。まさに願っても逢うことのできない御代に巡り逢うことができたのですから。

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