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執筆者の写真木津宗詮

櫻井の別れ

JR島本駅前にある桜井駅跡があります。桜井駅は古代律令制度の宿駅の跡です。明日の水無瀬神宮月釜の準備の帰路に立ち寄りました。 湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅で楠木正成・嫡子正行父子の今生の別れがなされた地で、「楠公父子訣別之所」として知られています。桜井駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて壮絶な戦死し遂げました。正成は数え11歳の正行に、故郷の河内へ帰すと告げました。それに対し正行は最後まで父と共にと懇願しました。正成は自分が討死にしたあと、後醍醐天皇のために、身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残リ、いつの日か必ず朝敵を滅すようにと諭しました。そして天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け今生の別れを告げて湊川に赴いたのです。そして成長した正行は四條畷(しじょうなわて)の戦い足利方に敗れ、弟の正時と刺し違えて自決したとされています。 正成・正行父子の遺跡である桜井駅の整備は、明治になって駐日英国公使ハリー・スミス・パークスが「楠公訣児之碑」を建立したことが端緒となりました。のちに「楠公父子訣別之所」碑が建てられ、国の史跡として指定されています。昭和になり明治天皇御製碑が建立され、昭和10年(1935)には「大楠公六百年祭」が盛大に挙行されています。 パークスは楠木父子を尊敬し、自ら強く希望して桜井の駅に顕彰碑を建立しました。その碑文(訳文)には、

西暦1336年、湊川の戦いに赴くに際し、 この地で子正行と別れた。 「忠臣」楠木正成の 忠義を一外国人として 讃えるものである。 駐日英国公使 ハリー・S・パークス 1876年11月

イギリス人のパークスが日本の楠木父子の忠義に感銘を受けたというのは非常に興味深いことです。 手元に楠公父子訣別の図があり、帰宅して久しぶりに床に掛けました。






















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