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鉄眼道光 (てつげんどうこう)

 鉄眼道光は寛永7年1月1日肥後(熊本県)に生まれました、江戸時代前期の黄檗(おうばく)宗の僧で、俗姓は佐伯氏、諡号(しごう)は宝蔵国師。はじめ父の影響で浄土真宗学び、13歳の時に浄土宗海雲について出家します。本願寺宗徒では才徳がなくても寺格の高下によって上座にあることを潔しとせず、長崎で隠元隆琦(いんげんりゅうき)に参禅して禅に帰依しました。のちに隠元の没後はその弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)の法を嗣ぎます。摂津国難波村(大阪市)の薬師堂を瑞龍寺(通称鉄眼寺)に改めて寺とし、肥後国に三宝寺など7ヶ寺を創建しました。

 寛文8年(1668)、仏教経典の集大成である一切経の開版の大願を抱き、隠元にその志を告げて明朝版一切経を授かりました。そして大名から庶民にいたるまで広範囲の支援者を得、全国行脚を行い、また経典の講義を行うなどして地道な募金活動を行い、あしかけ17年の年月を経て、延宝6年(1678)にその事業を成し遂げました。いわゆる鉄眼版(黄檗版)大蔵経六千九百余巻です。そして 鉄眼はその初版を後水尾法皇に献上しています。現在、版木48,275枚(重要文化財)は萬福寺塔頭の宝蔵院の収蔵庫に納められて今日も刷られています。この版木が日本明朝体や原稿用紙発祥の元となっています。   

 鉄眼は開版事業を成し遂げる間に大洪水や大飢饉などの天災で苦しむ人々の救済に集まった募金を全てその救済に充て、三度目にしてようやくなり、黄檗山内に藏版・印刷所としての宝蔵院を建立し、京都の木屋町二条の地に印経房(現貝葉書院)を設けました。 その後も一切経を金にし、さらに借金をして窮民の救済行為を続けました。そして鉄眼は天和2年(1682)3月22日、53歳で瑞龍寺で示寂しています。その遺偈は、

七転八倒 五十三年  妄談般若 罪犯弥天  優游華蔵界 踏破水中天

七転八倒五十三年、妄(みだり)般若を談じて罪犯天に弥(わた)る華蔵界(けぞうかい)に優游(ゆうゆう)して水中の天を踏破す

私の53年の生涯は七転八倒、のたうちまわって席の温まる暇もなかった。しかも、みだりに般若(仏法)を言葉や文字で説いてはいけないという禅の立場を逸脱したもので、その罪は天に満ち溢れている。だが、それを甘んじて受けよう。私は死後、素晴らしい仏の世界に遊ぶでろう。  鉄眼の遺体は瑞龍寺で荼毘にふされ、10万に及ぶ会葬者でその号泣は天地を震わせたとのことです。

 なお、その偉業は大正12年から昭和20年まで、尋常小学校国語読本国定教科書に「鉄眼と一切経」として掲載されていました。

第二十八課 鉄眼の一切経 (尋常小学国語読本 巻十一)  一切経は、仏教に関する書籍を集めたる一大叢書にして、此の教に志ある者の無二の宝として貴ぶところなり。しかも其の巻数幾千の多きに上り、これが出版は決して容易の業に非ず。されば古は、支那より渡来せるものの僅かに世に存するのみにて、学者其の得がたきに苦しみたりき。  今より二百数十年前、山城宇治の黄檗山万福寺に鉄眼という僧ありき。一代の事業として一切経を出版せんことを思ひ立ち、如何なる苦難を忍びても、ちかつて此のくはだてを成就せんと、広く各地をめぐりて資金をつのる事数年、やうやくにして之をととのふる事を得たり。鉄眼大いに喜び、将に出版に着手せんとす。たまたま大阪に出水あり。死傷頗る多く、家を流し産を失ひて、路頭に迷ふ者数を知らず。鉄眼此の状を目撃して悲しみにたへず。つらつら思ふに、「我が一切経の出版を思ひ立ちしは仏教を盛にせんが為、仏教を盛にせんとするは、ひつきやう人を救はんが為なり。喜捨を受けたる此の金、之を一切経の事に費やすも、うゑたる人々の救助に用ふるも、帰する所は一にして二にあらず。一切経を世にひろむるはもとより必要の事なれども、人の死を救ふは更に必要なるに非ずや。」と。すなわち喜捨せる人々に其の志を告げて同意を得、資金を悉く救助の用に当てたりき。  苦心に苦心を重ねて集めたる出版費は、遂に一銭も残らずなりぬ。然れども鉄眼少しも屈せず、再び募集に着手して努力すること更に数年、効果空しからずして宿志の果たさるるも近きにあらんとす。鉄眼の喜知るべきなり。   然るに、此の度は近畿地方に大飢饉起り、人々の困苦は前の出水の比に非ず。幕府は処々に救小屋を設けて救助に力を用ふれども、人々のくるしみは日々にまさりゆくばかりなり。鉄眼ここにおいて再び意を決し、喜捨せる人々に説きて出版の事業を中止し、其の資金を以て力の及ぶ限り広く人々を救ひ、又もや一銭も留めざるに至れり。  二度資を集めて二度散じたる鉄眼は、終に奮つて第三回の募集に着手せり。鉄眼の深大なる慈悲心と、あくまで初一念をひるがへさざる熱心とは、強く人々を感動せしめしにや、喜んで寄付するもの意外に多く、此の度は製版・印刷の業着々として進みたり。かくて鉄眼が此の大事業を思ひ立ちしより十七年、即ち天和元年に至りて、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂に完成せられたり。これ世に鉄眼版と称せらるるものにして、一切経の広く我が国に行はるるは、実に此の時よりの事なりとす。此の版木は今も万福寺に保存せられ、三棟百五十坪の倉庫に満ち満ちたり。

ちなみになぜこういう偉大な人を今の日本の教科書に取り上げないのか私にはが理解できません。先日アップした大石順教と並び、鉄眼は世界に誇るべき日本人のひとりだと私は常々思っています。




























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