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願わくば我に七難八苦を与え給え

願わくば我に七難八苦を与え給え


七難八苦とは様々な苦しみや困難のことをいいます。『観音経』に七難とは大火の難、大水の難、羅刹難(風難)、刀杖(とうじょう)難、悪鬼難、枷鎖(かさ)難、怨賊難の七つとあります。 八苦はすべての生物に存在する根本四苦である生老病死と、人に存在するとされる親愛なる者との離別の苦、恨み憎む者とも会わねばならない苦、求めるものが得られぬ苦、五感より生ずる苦のことをいうそうです。

「願わくば我に七難八苦を与え給え」とは、尼子十勇士の一人で、主家再興に生涯身を投じ、古今東西右に出るものがない忠君の士と謳われた山中鹿之介(幸盛)が三日月に祈った時に発したことばとして有名です。戦前は国定教科書に記載されていました。この語は今日より30日以内に、武功を上げさせてほしいの切実な願いを三日月に願掛けをした時のものだそうです。なお、鹿之助は それからのち見事に一騎打ちで相手武将を討ち取る武功を上げたとのことです。

さて、鹿之助はたしかに自分自身にに苦しみを与えてくれと三日月に言ったのですが、単に幸せに背を向けて不幸を求めた人というわけではないと私は思います。七難八苦を乗り越えることにより、より高い次元の幸福の境地にいたることがわかっていたことによるのではないでしょうか。七難八苦が与えられることにより修行を積み武芸は磨かれるのは間違いのないことでしょう。多くの苦難を経たのちの慶びや快楽といった幸福感はそれまで以上のものとなります。不満や苦痛もなく、気楽に暮らす生き方には大きな歓喜はない。極論ではありますが、あえて苦難の道を選んでいる人はかえってより大きな幸福を求めて行動しているのかもしれません。

7年前にひょんな事からまさに多くの艱難に遭遇しました。鹿之助の「七難八苦」には及びませんが。迫間別邸の調査記録を出版物にするまでの過程は、短期間にかってない苦しみや困難に見舞われました。日本の敗戦によりそれまで日本の一地方であった(私は少なくとも朝鮮は欧米のいうところの植民地ではないと考えています。あくまでも日韓は併合であり、朝鮮は日本と一つになり、九州や北海道と同じ日本の一地方になったのでだから。ただし、それまでの国家・民族としての歩みや基盤が異なったことから、日本の他の地方とは全く同じでなかったのは事実です)朝鮮が日本の統治を離れ、他国による軍政、そして国家を樹立し、内戦、軍事独裁。民主化等により社会も経済も政情も混乱し、戦前の記録が散逸、消滅してしまいました。また、引き上げにあたり迫間家は同じく記録や資料を持ち出すことができなかった。そして何より木津家においては聿斎を知る人が2名しか残っていません。迫間家も同様で、91歳と88歳の孫のみが房太郎とその別邸を直接見た生き証人で、他の人はすべて鬼籍に入ってしまっていました。そうしたまことに困難な中で五里霧中の状況下、ほんのわずかな糸口に右往左往し東奔西走して得た情報から次なる情報を繋いでいくという作業に3ヶ月にわたり没頭しました。ただし、これは通常の稽古や業務に携わりながらの作業で、また、夜中に資料の整理、検討、執筆と本当に苦しい作業でした。

そして7年前の12月『107年の謎 プサン迫間房太郎別邸の調査記録』という本が無事に上梓することができ、それらの苦労も一瞬にして吹っ飛んでしまいました。あとに残った思いはまさに安堵そのものであり、その喜びはかってないものでした。もしもこの仕事が安易になされたものならばそんな思いには到底至りませんでした。「願わくば我に七難八苦を与え給え」の語はまことに意義深い、そしてとても重たいことばだと実感ししました。

写真は大徳寺玉林院の山中鹿之介の墓とその末裔である鴻池一族の墓です。


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