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8月3日稽古場の床

備前岡山藩の筆頭家老で、茶の湯を速水宗寛、玄々斎 に師事しか伊木三猿斎の「雷」の置字の画讃を掛けました。



 不作一喝用 上拄天下拄地 三猿(印)


雷 、一喝の用を作さず、上は天を拄(ささ)え、下は地を拄える



雷鳴や稲光を臨済の喝に見立てています。古来、臨済の喝は、「臨済の喝徳山の棒」として有名です。臨済禅師の大喝と徳山禅師の痛棒のことで、ともに雲水教導の方法として用いたものです。

『臨済録』には「臨済の四喝」といって四種類の喝があると記されています。一つめは迷いも悟りも、理屈も道理も、妄想や分別を一刀両断に断ち切る喝。二つめは天地一枚、大悟した境地から吐き出される全くすばらしい、だれ一人寄り付くことのできないまったく隙のない喝。三つめは相手の足下を見抜くため、すなわち相手の素質や力量を試す喝。そして四つめは、すべての造作やはからいを一切加えない喝、喝しても喝しない喝だそうです。そしてこの四つめの喝は、他の三つの喝の根源であり、すべてを含んでいる喝なのだそうです。この賛の「不作一喝用」は四つめの喝のことです。実際この句は『臨済録』の引用しています。

あとの2行の句は、「雷」を別のことばで説明しています。そこで三猿斎は雷の音・雷鳴・稲光をすべての造作・はからいを全く加えることもなく、その形跡すらない。雷をそうした喝に見立てているのです。そしてその雷からは凡夫には推し量ることのできないものが生まれる。それは上は天をを拄(ささ)え、地をを拄(ささ)える、そんな恐ろしい働きをするのが雷であるとしているのです。そこでこの雷は絶対無比なものであり、また「雷」を「喝」に置き換えることができるのです。

禅語の真の意味は本当にその境地にいたった人以外には、窺い知ることができません。理屈では真の理解・会得をすることを許さない。自身が僧堂で実参参究して身につけることより方法が無いのです。私は稽古や茶会で禅の墨蹟をほとんど使うことがありません。字面は理解しても本当の意味を説明できないからです。まことに厄介なものです。

花は鉈籠花入に宗旦木槿と金水引、赤水引をいれました。



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