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伊達千広

幕末の紀州藩士で国学者、明治の元勲陸奥宗光の父である伊達千広(宗広)の懐紙「冨士」です。


 冨士

   自得居士

     千廣

不二かねの

 雪くれなゐに

   にほふ也

 今や朝日の

   海を出らむ

富士山の峰の雪が海から上った朝日に照らされて紅に美しく映えている光景を詠んでいます。かつて三保の松原で富士山を見ました。その雄大で美しい姿に、「三国一の霊峰」「扶桑第一峰」と改めて感じ入りました。

伊達千広は初め漢学を、のち本居大平について国学を学ました。10代藩主徳川治宝に重用され勘定吟味役から同奉行、寺社奉行兼務へと昇進して500石取りとなりました。藩政改革の中心人物となり、藩内の尊王論を主導しました。治宝が没すると後ろ盾を失い、反体制はにより改易となり、10年近くにわたって紀伊田辺にて幽閉されました。明治維新後、幽閉を解かれ、大阪に移り住み、敬愛していた藤原家隆ゆかりの地に「自在庵」という庵を建て晩年を過ごしました。ちなみにその地を「夕日岡」(夕陽丘)と命名しています。

伊達千広は初代松斎宗詮と懇意な仲で、夕陽ケ丘の藤原家隆の墓の垣を造る時に松斎がその資金を提供し、また睦奥宗光も二代得浅斎と交流がありました。

得浅斎は勤皇の志が厚く、宗光はじめ勤皇志士たちと交流があり、また彼らを支援しました。今日、得浅斎と宗光の関わりを伝える資料として、国会図書館の憲政資料室に、得浅斎の社中で十人両替加島屋長田作兵衛から融資を受けるにあたり、得浅斎に紹介してもらうようにと宗光に宛てた宗広の手紙が残されています。


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