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執筆者の写真木津宗詮

土田湖流

清技会のメンバーの一人袋物師その親族が大阪の堺市にいるとの情報があり、本日、お宅を訪ねました。そしてとても有意義な情報を提供してくださいました。

これまで土田湖流は千家十職袋師六代土田友湖の弟で、友湖の流れを大阪に伝えるということから湖流と号し、愈好斎襲名記念鶏頭裂帛紗を製作し、他にも出帛紗・点前帛紗・仕服を作り、その生没年も不明で、後継者が無くその跡は途絶えているとされていました。

ところが初代湖流は六代土田友湖の弟ではなく、七代友湖の弟で、平瀬露香の招きで川端近左等と大阪に移住したのです。湖流は一代限りではなく五代まで大阪で袋物師として続いていました。清技会の土田湖流は五代目で、四代湖流の妻で、大正9年に四代湖流が両親に先立ち25歳で亡くなり、その跡を未亡人が継承したのです。そして一人息子の勲が昭和19年に25歳で戦死し、戦後も大阪市西区江戸堀で袋物師の仕事に携わり、昭和57年に88歳で亡くなり絶家となってしまいました。葬儀は親族で執り行われ、下寺町の妙徳寺に埋葬され永代供養されたとのことでした。

五代湖流が特に大切にしていた茶箱を拝見しました。それは昭和8年に湖流が聿斎宗泉、清技会のメンバー須田菁華と山中温泉に赴いた際にその記念として清技会の吉田一閑が加賀の虫籠に一閑張を施した品です。中には湖流が自ら仕立てた仕覆や帛紗、網、袋が入っていました。とても見事な漆塗りの箱に収められていて、その時の思い出をとても大切にしていたようです。また聿斎の短冊や仕覆の型紙、覚書なども大切に残されていました。

五代湖流は若くして寡婦となり、夫の両親を看取り、一人息子に先立たれ、戦中戦後の困難な時期に婚家の家業を継承した苦難の一生でした。とても気丈で美しい夫人であったとのことです。

なお今回貴重なお話をしてくださった薄宣子さんは、三代湖流の娘が嫁いだ家の方で、曾孫にあたる方で、Facebookにアップすることをご了承くださいました。

今も塗師川合漆仙、焼物師大樋長寿、餝金物師大森金長、指物師井口笠仙、竹芸師山本竹龍斎の足取りが十分に掴めていません。ご存じの方、どのような些細なことでも結構です。是非とも情報お待ち申し上げています。何卒お力添えください!


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