奄訶訶訶尾娑摩曳(おんかかかびえい)
娑囀賀(そわか)と唱へなは
死ぬとていのちたすけ
とらさむ 壬午夏日
黄檗八十三翁直拝題(印)
黄檗山の直翁の地蔵画賛です。毎年、8月24日前後に床に掛ける軸です。
「おんかかかびえいそわか」は地蔵の真言で、「おん」は帰依するとか供養する、「かかか」は地蔵菩薩の笑い声ということから地蔵菩薩のこと、「びさんまえい」とは「類いまれな尊いお方」、地蔵菩薩への賛歓の気持。「そわか」は、神聖なことばの最後につけて、その言葉の完成成就を願う気持を表します。そこで、「すべての人々が喜悦する不思議霊妙なご利益をお授けくださる地蔵菩薩へ帰依します。その成就あらしめたまえ」となります。 地蔵菩薩はサンスクリット語「クシティガルバ」の意訳で、直訳すると大地の子宮で、大地の母胎という意味になります。そこで包蔵という意味で捉えられ、「地蔵」と訳されたそうです。
『地蔵十王経』によれば閻魔大王の化身ともされています。別名として妙幢菩薩とも呼ばれます。もともと地蔵は『地蔵十論経』のなかに「よく善根を生ずることは、大地の徳の如し」とあるように大地の徳そのものを呼ぶ語だったとのことです。それが、バラモン教の大地の神「プリティヴィー」の信仰とあいまって擬人化し「地蔵菩薩」という仏教の修行者として誕生したというのが通説とのことです。現在日本でも土地の守り神のような立場におかれたりするのも、大地の神プリティヴィーの影響を今でも色濃く残しているといえるのでしょう。そこで髪がない剃髪、袈裟を身に着ける僧形で立像、坐像のほか半跏像もあり、左手に宝珠を持つ像と、左手に宝珠、右手に錫杖をとる例が多く、まったく持物を持たない場合もあります。 釈迦さんの入滅後から56億7千万年後に現れるという弥勒菩薩が、この世に出現するまでの無仏時代の救済をゆだねられています。地蔵菩薩は地獄をはじめ餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六道を回り、閻魔大王ほかさまざまなものに姿を代え人々を救済しているのだそうです。そして地獄道は檀陀地蔵(金剛願地蔵)、餓鬼道は宝珠地蔵(金剛宝地蔵)、畜生道は宝印地蔵(金剛悲地蔵)、修羅道は地地蔵(金剛幢地蔵)、人道は除蓋障地蔵(放光王地蔵)、天道は日光地蔵(預天賀地蔵)等の名称があるそうです。その姿は合掌するもの、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持つものなどがあります。日本では平安時代以後に、冥府の裁判長である閻魔大王の本地(本当の姿)は地蔵であるとする『地蔵十王経』や、長寿や幸せを与えてくれると説く『延命地蔵経』などが成立したことで、民間の間では現在とそして死んだ後の二世に渡って利益絶大と大流行したそうです。
なお、平安初期の小野篁が、一度亡くなり蘇生し、冥界で見た地蔵を一本の大木から六体の刻み、大善寺(京都市六地蔵)に祀りました。その後、平清盛が都に通じる主要街道の入り口に地蔵堂を建て祀ったとされる六地蔵が今日も盛に信仰されています。。
1.奈良街道-大善寺-伏見六地蔵
2.西国街道-浄禅寺-鳥羽地蔵
3.丹波街道-地蔵寺-桂地蔵
4.周山街道-源光寺-常盤地蔵
5.若狭街道-上善寺-鞍馬口地蔵
6.東海道 -徳林庵-山科地蔵
信者に代わって苦を受けるということから、信者の願いを代わってかなえたり、危険に合ったときは身代わりになってくれる「身代わり地蔵」の信仰が盛んになりました。それから「泥付地蔵」「勝軍地蔵」「矢取地蔵」「縄目地蔵」「片目地蔵」多くの地蔵信仰が生まれ、なかでも昔話の「笠地蔵」が有名です。これらはすべて「信者に代わって苦を受ける」という地蔵菩薩の性格から生まれた信仰です。地蔵信仰は、江戸時代に道祖神(賽の神)信仰と結びついたため道端に祀られるようになったとのことです。
祀られている場所は事故や行き倒れ等の不幸があった場所が多く、死者を供養したり行路安全を願うために供養する霊の戒名が刻まれていることもあります。また、子育ての願いを込めて祀られているところもあります。子供を育てるのが難しかった時代は地蔵菩薩にすがりたいことも多かったのでしょう。
また、京都では火除けの神である愛宕権現の本地が地蔵菩薩ということで、火難防止を願って町内ごとに祀られていると幕末の文献に記されています。
このことから地蔵盆では子どもが地蔵菩薩にお詣りし、その加護を祈る習わしになっています。地蔵菩薩の縁日である 224日ということから、前日の23日と24日の両日にわたり行われます。地蔵菩薩の設えは各町内でさまざまです。町家の格子をはずして開放したもの、寺院の境内、マンションの集会所、個人のガレージ、町内で守る小堂など各町内ごと一様ではなく個性的です。僧侶による読経、直径2〜3メートルの大きな百万遍大数珠を囲んで座り数珠回し、子供におやつの配布、夜のイベント。翌日、おやつ配布、お供えのお下がり配布、後片付けといった流れが多いようです。。初日の朝に地蔵盆の用意をし、僧侶による読経、子供におやつの配布(日に一度か二度)、夜のイベント(踊りや線香花火など)。翌日、おやつ配布、福引、お供えのお下がり配布、後片付けといった流れが多いようです。地域の子どもたちが一堂に会するため、子どもたちに向けたイベントも行われたり、そのまま子どもたちの遊び場となることもしばしばです。近年、子どもが少なくなったことや大人たちの都合がつきにくくなったりすることから、2日を1日だけに短縮したり、23・24日の前後の土・日に振り替えたりすることが多くなっているようです。
空也上人の作とされる「賽河原地蔵和讃」を紹介します。なお、実際は近世初期~中期にできあがったと考えられるそうです。
これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、西院の河原の物語、聞くにつけても哀れなり、二つや三つや四つ五つ、十にも足らぬみどり子が、西院の河原に集まりて、父上恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、此の世の声とはこと変わり、悲しき骨身を通すなり、かのみどり子の処作として、河原の石を取り集め、此れにて廻向(えこう)の塔を組む、一重組んでは父のため、二重組んでは母のため、三重組んでは故里の、兄弟我が身と廻向して、昼は一人で遊べども、陽も入相(いりあい)のその頃は、地獄の鬼が現れて、やれ汝等は何をする、娑婆に残りし父母は、追善作善(さぜん)の勤めなく、ただ明け暮れの嘆きには、むごや悲しや不愍(ふびん)やと、親の嘆きは汝等が、苦患(くげん)を受くる種となる、我らをに恨む事勿れと、黒鉄(くろがね)の棒を差し延べて、積みたる塔を押し崩す、其の時能化(のうけ)の地蔵尊、ゆるぎ出でさせ給ひつつ、汝等命短くて、冥途(めいど)の旅に来るなり、娑婆と冥途は程遠し、我を冥途の父母と、思うて明け暮れ頼めよと、幼きものをみ衣の、裳(もすそ)のうちにかき入れて、哀れみ給ふぞ有難き、未だ歩まぬみどり子を、錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲(にんにくじひ)のみ肌(はだへ)に、抱き抱へて撫でさすり、哀れみ給ふぞ有難き、南無延命地蔵大菩薩 真言 オン、カ、カ、カ、ビ、サンマ、エイ、ソワカ。
丹波街道の桂地蔵
綺麗に化粧の施された種々の地蔵
地蔵盆の風景
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