富士山は静岡県と山梨県に跨る活火山で標高3776.24 mの日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な姿から洋の東西を問わず日本の象徴として広く知られています。そして日本三名山(三霊山)のひとつで、日本百名山、日本の地質百選にも選定されています。また、富士箱根伊豆国立公園、特別名勝、史跡、さらに平成25年(2013)には浅間大神と木花開耶媛(このはなさくやひめ)を主祭神とする富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)と、富士山頂にある「奥宮」などの関連する文化財群とともに「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録されています。 古来、霊峰とされ、富士山そのものが信仰の対象として崇められてきました。噴火を沈静化するため律令時代には国家により浅間神社が祭祀され、また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場され、仙元大菩薩とかモトノチチハハと呼ばれました。そして神仏習合がすすみ山頂には大日如来が祀られ、山中の地名も文殊岳とか釈迦の割石、薬師岳、阿弥陀窪、観音岳など仏教的な名称が多く、山頂部が仏の世界と考えられるようになります。。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」と記され、富士山頂の8つの峯(八神峰)が「八葉」と呼ばれました。参拝者たちは「南無阿弥陀仏」とか「六根清浄」と繰り返しながら唱えて登拝しました。 このような独自の信仰様式にをもっていた富士信仰は、慶応4年(1868)の神仏分離令により神仏習合の形態は大きく崩されることとなりました。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されました。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂など取り壊され、山中の仏像も取り除かれ、仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更されました。明治5年から同8年にかけて山麓の浅間神社が式部寮で定められた様式により、山頂に浅間神社の奥宮が奉斎され、神道式の祭典が行われるようになり今日に至っています。山中の地名も文殊岳が三島岳、釈迦の割石が割石、薬師岳が久須志岳、釈迦岳が志良岳、大日堂が浅間堂などと改められました。富士信仰のこうした改革を推進した中心人物が薩摩の郷士出身で平田銕胤門下の神道家宍野半(ししのなかば)で、教部省出仕ののち浅間神社宮司となり、富士一山講社を組織し、それまでの御師と富士講の巨大な組織を復古神道的な教説を信奉する新組織へ編成替えしたことによります。 円山応挙の「富士山絶頂之図」です。応挙自身は富士山を登拝したかはわかりませんが、明治の神仏分離以前の富士山山頂の図を応挙が写したもので、当時の様子を知ることができます。 平成30年(2018)9月に当時小学6年の息子と日帰りで登頂したことがとても懐かしいです。そしてなによりの思い出となりました。
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